『精神と記号』より

映画に固有の有効性は、その前シニフィアン的な象徴的諸要素やその非シニフィアン的な諸要素―視覚的形姿、色彩、音響、リズム、顔貌の描線、言葉等といったものの連鎖や動き―に依存しつづける。幾百年、幾千年も前から、表現手段としてほとんど変化のない言葉やエクリチュールと異なって、映画はたった数十年でその技術を豊富化し、なお豊富化しつづけている。

人は映画に行くとき、精神分析家のところに行くときのように、自分の自我や自分の「かまえた態度」」、幼少期の記憶などをかかえて出かけるわけではない!そこでは、映画がわれわれのアイデンティティ、われわれの過去、われわれの未来を取り払ってくれるということが、あらかじめ需要されているのである。映画がもとらすささやかな軌跡は、ほんの少しの間ではあれ、われわれを孤児に、独身者に、記憶喪失に、無意識に、果てなき存在にしてくれることである。映画を観終えたあと、われわれが「日常の」反射的動きをとりもどし、自分のなかに閉じこもった隣人たちの顔と再びあいまみえるとき、映画が感動的なものであれば、われわれは映画によってもたらされた印象を保ちつづけようとすることがある。ひとつの映画がわれわれの存在をひっくりかえすということもありうるのだ!

精神分析的無意識(あるいは文学的無意識―というのはこの両者は互いに互いから派生しあう関係にあるから)はつねに二番煎じの無意識なのである。分析の言説は分析的神話を中心にして構築される。個人的神話がこの基準となる神話が構成する枠組みに適応しなくてはならない。映画の神話はこうした超神話システムを有していなくて、それが作動させる一連の記号的手段は観客の記号化の過程と直接連結するのである。一言でいうなら、映画や視聴覚メディアの言葉は生きたものであるのに対して、精神分析の言葉はずいぶん前から死んだ言葉しか話していないということである。