『アンチ・オイディプス』二十五日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人
第十一節 最後はオイディプス

家族が社会野の外におかれるということは、家族にとって最大の社会的機会でもある。なぜなら、それは、社会野の全体が家族に適合することが可能になる条件だからであるからである。個々の人物は、まず何よりも社会的な人物であり、言い換えるなら抽象量から派生した機能である。彼らは、これらの抽象量の相互関係によって、これらの抽象量の公理系において、これらの連接においてそれ自体、具体的なものとなる。それらは、正確には、点―記号、切断―流れ、また資本主義の純粋な「形象」によって生み出された布置であり、イメージである。人物になった資本としての資本家、つまり、資本の流れから派生した機能としての資本家、人物になった労働力としての労働者、つまり労働の流れから派生した機能としての労働者がこれにあたる。こうして資本主義は、みずからの内在野をもろもろのイメージで満たすのだ。悲惨、絶望、反乱でさえ、また一方資本の暴力や圧制までも、悲惨の、絶望の、反乱の、暴力の、圧制のイメージとなる。ところが非具象的な形象から出発して、あるいはこうした形象を生み出す切断―流れから出発しながら、これらのイメージそのものが形象的になり、再生産されるようになるのは、人間という素材に形を与えることによってでしかない。人間という素材を再生産する特殊な形態は、社会野の外に押しだされるが、この形態を規定しているのは社会野なのである。したがって私的人物は、第二の次元のイメージであり、イメージのイメージ、すなわち幻影であり、こうして、社会的人物という第一の次元のイメージを表象する能力を受け取ることになる。これらの私的人物は、父、母、子として限定された家族という場の中で、形式的に規定されることになる。

オイディプスは、資本主義システムにおいて、第一の次元の社会的イメージが、第二の次元の私的家族的イメージに適合することから生まれてくる。オイディプスは到達点の集合であり、これは社会的に規定された出発点の集合に対応する。オイディプスは、私たちの内に秘められた植民地的組織体であり、これは、社会的主権の形態に対応する。私たちはみんな小さな植民地であり、オイディプスが私たちを植民地化するのである。家族が生産と再生産の単位であることをやめるとき、連接の働きが家族の中に単なる消費の単位を見いだすとき、私たちはまさに父―母を消費するのだ。出発点の集合に存在するものは、社長、指導者、神父、警官、徴税吏、兵士、労働者であり、あらゆる機械と大地性であり、私たちの社会のあらゆる社会的イメージである。ところが、到達点の集合に存在しているのは、結局はもはや、パパとママと私でしかない。専制君主の記号はパパによって受けつがれ、残滓的大地性はママによって引き受けられ、<私>は分割され、切断され、去勢される。

すべてはあらかじめ形成され、前もって調整されているのだ。社会野において各人は、言表行為の集団的代行者として、あるいは生産反生産の代行者として、作用し作用されるが、この社会野はオイディプスの上に引き下ろされてしまう。そしてオイディプスにおいて、いまや各人は自分自身の片隅に閉じ込められ、各人を個体として分割する線によって切断される。各人は言表の主体と言表行為の主体とに分割されるのだ。言表の主体は社会的人物であり、言表行為の主体は指摘人物である。「だから」、これはおまえの父であり、だから、これはおまえの母であり、だから、これはおまえなのだ。資本主義のもろもろの連接が私人となった人物に適用されるかぎりにおいて、この連接から、家族の連接が結果してくることになる。パパ―ママ―私、それがいたるところで確実に見いだされる。なぜなら、ひとはあらゆるものをそれに適用したからである。イメージによる統治、これこそ資本主義が、分裂を利用して流れを迂回させる新しい仕方なのである。

オイディプスの中には、三つの状態または三つの機械が要約されている。じじつオイディプスは、大地機械においては、みたされない空虚な極限として準備されている。専制君主機械においては、それは象徴的にみたされる極限として形成される。しかしオイディプスがみたされ、現実に働くのは、資本主義機械の想像的オイディプスとなることによってのみである。専制君主機械はもろもろの原始的な大地性を保存していたが、資本主義機械は<原国家>を自分の公理系の一極として復活させ、専制君主を、自分のもろもろのイメージのうちのひとつとする。だからこそ、オイディプスはあらゆるものを集め、あらゆるものがオイディプスの中に見いだされる。これは世界史の成果であるが、しかしそれは資本主義がすでに世界史の成果であるという特別な意味においてである。これはまさに、物神、偶像、イメージ、幻影といった系列である。

良心の呵責とは、シニシズムの反対ではない。それは、私的人物において、社会的人物のシニシズムの相関項となる。ニーチェや、ついでロレンスやミラーといった人びとは、この良心の呵責のシニカルなふるまいをすべて分析して、文明的ヨーロッパ人を定義したのである。―イメージの支配と催眠状態、イメージが蔓延させる無気力状態―生命に対する、自由なものすべてに対する、過ぎ去り流れてゆくものすべてに対する憎悪、死の本能の普遍的な伝播。―伝染手段として用いられる抑鬱、罪責感、吸血鬼の接吻。おまえは、幸福であることは恥ずかしくないか。私にならえ。おまえもまた「それは私のあやまちだ」といわないうちは、私はおまえを放しはしない。ああ、抑鬱者のいまわしい蔓延。神経症が唯一の病気であり、その使命は他人を病気にすることである。