現代的な「フレーム」とは

まだ考えている最中なのだけれど、伊藤剛的なマンガのフレーム、ボニゼール的な映画・絵画の対比におけるフレーム(あるいは額)はそれぞれ批判を免れないだろう。
まず伊藤剛的なマンガのフレーム概念は、それは「マンガに限定することができない」という消極的な批判しか現在のところ私にはできないのだが、『テヅカ〜』においても、上述したとおり伊藤は敢えて禁欲的に抽象性を高め、議論をマンガに限定することで(世代論というノイズは混入していたものの)精密で強度のある概念装置が提出しようとしていた。このことについては否定するつもりはない。だが伊藤が『テヅカ〜』執筆のために自ら課しただけに過ぎないその禁欲を、読者たる私たちまでもが担う必要はないだろう(伊藤の注意に敬意を払うべきではあるとしても)。
次に、ボニゼール的なフレーム概念は図像の携帯性によって批判されることになる。ボニゼールが前提にしている映画も絵画も、いずれも劇場で上映される映画か美術館に展示される絵画といった、きわめて場所の限定性の高いものであることに注意したい。ビデオが普及するのが80年代以降であることを考えると、ボニゼールの議論がやや古くなってしまっていることは仕方がないのかも知れないが、写真による絵画の複製や、出版技術および書籍や新聞の流通システムの発展を考慮するならば、図像的なものの携帯性がまったく論じられていない点は無視できない。
イメージの携帯性は、マンガ・アニメ・映画・絵画を貫く重要な問題系を作る。この議論は、シュルレアリスム絵画を論じるにあたって「水声通信」の近号で林道郎と鈴木雅雄が「図」「フィギュール」を巡って展開している。鈴木雅雄はその結果、ポップ・アートとシュルレアリスム絵画を対比する小論をも書いている。
(マンガ、映画、絵画といった「ジャンル」に限定されない)視聴覚メディア一般におけるフレームの問題は、このイメージの携帯性を考慮して練り直される必要があるだろう。その際には、東浩紀が『存在論的、郵便的』で議論した精神分析的=郵便的な脱構築をもって、80年代に流行したラカン派的な問題系の範疇に留まった(ように思われる、クラウスらの)イメージ論を読み直すことが必要になる。その結果から、村上隆に代表される、現代美術の問題意識と「動物」や「ゲーム的」などの消費文化における問題とが接合されることになる。「ゼロ年代の想像力」などというものが本当に議論できるのだとしたら、この手順を踏むことは無駄ではないだろう。