お金を燃やすというアート

知人のmixi日記で、お金を燃やしたアートということでダダカンとKLFが紹介されていた。そのKLFのお金を燃やすシーンが、ダークナイトのあのシーンを見たときにも感じた眩暈を思い出させてくれる。

何故、燃える貨幣が眩暈を催させるのか。金が燃えているとき、私(たち)の認識している世界が罅割れ、その炎の向こう側に流れ出て行ってしまうのを感じるからだ。それは砂浜の波打ち際に立ち、素足の下を砂利が波にさらわれていく感覚に似ている。
同様の感覚を私(たち)は、数年前の数日前、9-11でも味わった。今は亡きシュトックハウゼンが、悪魔のアートだと言ったあの事件。その破壊的な魅力は、ハリウッドの映画を超えるものとして、アメリカ側の国々をつなぐ放送と通信のネットワークを介して、アメリカ側の人々に衝撃を与えた。衝撃と言うよりも、ひとつの「映像」として、それが刻まれた「場所」としての各々の「心」を彼らに与えた。ハリウッドに象徴される偽物らしい偽物と、資本主義的な理想で満たされているべき「心」に、911が刻印された「心」がとって代わったわけだ。
この三桁の数字とともに、崩れ落ちる「塔」は、偽物らしい偽物が受ける復讐と、偽物らしい偽物を打ち壊して「真実」を突きつけてくる「他者」との闘いの始まりを、同時に象徴することになった。少なくともアメリカの少なからぬ一部の人たちにとっては。
だがその、真実を突きつけてくる他者の登場によって打ち壊され、復讐に燃えたアメリカの一部の人たちにとって「失われた」、偽物らしい偽物、資本主義的な理想で満たされた「心」とはいったいなんだったのだろうか。
ダークナイト』に登場する検事ハービー・デントの傷一つなかった自信に溢れるあの顔、力に満ちて失敗をしないあの存在は、その「有り得なさ」、その切ないまでの理想的な在り方、その「合法性」および虚構性も含めて、本土を犯されたことのない20世紀アメリカの姿だと言えるだろう。
だがそのハービー・デントを描いた『ダークナイト』は?
ダークナイト』はハリウッド映画である。それも成功したハリウッド映画だ。ここにも虚構がある。いやむしろこれこそが虚構なのだ。スペクタクルと明快な図式、そしてクリティカルな眩暈の提供こそが高度に構築された虚構の商品なのだ。
記憶の妖しさを題材にした『メメント』で日本にも知られるようになったクリストファー・ノーランは、この種の眩暈を執拗に描こうとしてきた(必ずしも成功していない場合もあるかも知れないが)ように見える。クリティカルなどんでん返しは虚構の本領なのだ。
ダークナイト』はKLFとダダカン剽窃した。資本主義の内側において、禁忌を犯して紙幣を焼くこと、誰もが欲しがる虚無の依り代である貨幣を否定すること、その正気と狂気の一致する瞬間が虚構世界に参入したと素直に認めるべきだろう。つまりもはや、誰かが金を焼いても、それだけでは(少なくとも表現史的にクリティカルな)アートたりえないということだ。それはまさに、類似的には911を先取りしていた『ファイトクラブ』のラストシーンが、逆説的に911に乗り越えられたことの、さらに逆を意味している。
ファイトクラブ』は理想的なオチだった。それを悪夢的なアートとしての911が塗り替えた。それは壮絶で世界史的な出来事だった。虚構が、出来事に復讐されたのだ。ダダカンとKLFは理想的なアートであった。それを悪夢的な映画である『ダークナイト』が剽窃したのだ。貨幣の破壊が虚構に取り込まれた。この虚構に復讐できる出来事はあるのだろうか?それが恐らく私たちを待ち受けている。

だが違う。私たちはその「出来事」を待っている場合ではないのだ。『ダークナイト』で破壊される紙幣は、私たちには関連してこない。私たちに関連しそうな紙幣の破壊劇、虚構の依り代が劇的に破壊された事件は1980年代のバブル崩壊、そしてここ数日100兆円に迫る規模で露呈した世界市場の損失だろう。燃やされた紙幣は国家の銀行が作りなおすので帳簿の上では焼失しないし、紙幣を燃やした「犯人」は処罰を受けるので、事件としてのアートの鑑賞者たちの眩暈も埋め合わせを受ける。所詮は裁かれうる犯罪なのだ。だが金融市場の大規模な損失は容易に埋め合わせられはしない。金融の損失とは、単なる帳簿上の数字の低迷ではない。市場の将来性に対する、多数の不信の表れなのだから。その不信を埋め合わせなければならない。
その意味でリーマンブラザーズ破綻のニュースで、キャスターの背後に映り込んだゲイのパフォーマーは象徴的な意義を持っている。パロディとしても、あるいはベタな愛の宣教としても?

リーマン破綻ニュース登場のゲイカップルの正体
いや、もう一度「だが」と言わざるを得ない。先日のリーマンブラザーズ破綻事件は、なお私たちにはどうでもいいことだ。それよりも1980年代のバブル崩壊は「日本的なもの」への国際的な期待の崩壊だったという意味でより重要なのではないだろうか。2010年を目前にして、「日本的なもの」などに対する期待が崩壊したのは妥当だったと思わざるを得ない。近視眼的な政策を支持する近視眼的な国民、長期的な視野が開けない教育環境、行政の仕組み。ガラパゴスどころの話ではない。今のままでは、国際的な自意識を勘違いではあれ持ってしまった日本人などというのは絶滅危惧種になってしまうだろう。斜陽産業に関わる者として、それでも敢えていい仕事をコツコツと残しながら生きていくしかないのだろう。だが何か、まだ何か、どうにかして希望を見出すことはできないのだろうか。私(たち)はダークナイトではないし、ファイトクラブのメンバーにもなりたくない。リーマンブラザーズでもなければ、アルカイダでもなく、911の消防士たちでもないのだから。

夜更かしついでに色々と書いてみたが、映画とニュースとちょっとしたお話をネタにした、単なるおしゃべりに今回も終始してしまった。いい仕事をコツコツとやるしかない。仕事をコツコツとやりながら、それをよりよくしていくしか生きていくすべはないのだから、、、、。