大きな物語について

大きな物語」について、ちょっと考えれば誰でも思い当たりそうなのに、意外に勘違いされていて、もしかしたら私が間違っていたのかと思っていたんだけれども、別のところでも同じようなことを言っている人がいたらしいのでメモがわりに引用しておく。要するに「ポストモダン」というのは、少なくともリオタールの表現では「小さな物語に居直る」のではなくて、「大きな物語は崩壊したなかでどうしていくかを考えなくてはならない」ということだという話。

そこで三脇康生氏が紹介した、フランス留学時に若い学生から怒鳴られたというエピソードが意味を持つ。 三脇氏はリオタールを話題にし、「大きな物語は終わったのだから、あとは各人がバラバラに小さな物語でやるしかない」という、日本ではオーソドックスな理解を口にしたらしいのだが、そのフランス人学生は激昂し、次のように説明したという(大意)。

 リオタールはそんな馬鹿じゃない。 彼が言っていたのは、「恣意的に好きなことをやればいい」ということではなく、大きな物語がなくなったからこそ、どうすればいいかを一人ひとりが考えなければいけない、そのつどしっかり分析して抜け道を見出さなければいけない、ということだ。 彼の本は『ポストモダンの条件』というが、これは私たちが引き受けざるを得ない「条件」の話をしたのだ。 そこに居直れという話ではない。

ここにいう「分析」を、客観的な真理にかかる何かと理解すると間違う。 「何のために分析するのか」と、またしても大きな物語探しが始まる。そうではなくて、目の前の場面ごとにその場のあり方を分節する、その分節のプロセスがそのまま目的の強度を持つ、そういう分析を過程として生き切ることが問題になっているのだ*4。 これが1980年代の思想ブームでは全く伝わらず、ただ客観的な大きな物語を捨て去って勝手にバラバラにやればいい(スキゾの全面礼賛)というバカな話にしかならなかったから、現代の思想的迷走がある――そういう説明だった*5。
細かい作業に分け入る前に、正当化の《方針》そのものが間違っていたのではないか、という決定的な問題提起に思えるし、これは作品作りだけではなくて、メンタルなケアについてもまったく同様の迷走が問題になっている。 一人ひとりがバラバラに生きればいいのか、大きな全体性に回収されればいいのか。――「ものをつくる」というプロセスへの批評的な介入と、精神医学的な臨床活動は、「応用」という関係にあるのではなくて、同じ取り組みそのものなのだ。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20080930より)