トランスクリティークとポストモダン

http://d.hatena.ne.jp/innhatrang/20080426
↑を読んだ。
柄谷行人論といえばロスジェネ論壇の中心的人物としても知られる大澤信亮氏による論考がこないだの新潮11月号に掲載されていたけれど、そっちもちゃんと読めていない。今年は東浩紀の総決算・再出発の年でもあるようなんだけれど、柄谷理解についても決算の年なのかも知れない。というか、批評的言説のひとつの転機になっているのかも知れない*1
新潮と言えば、「ファントム、クォンタム」の第三回をようやく昨日読み終えた。第四回が今月号に掲載されているので、ようやく追いついたかたち。第三回では過激で派手な理論をぶちまけていた主人公とそれに「冷めつつノった」弟子とのやりとりが描写され、理論的な尖鋭化と虚無の感情とテロの問題について考えさせられる。私小説的なものとして書かれていると思われる本作について言えば、その「過去に書かれていた派手な論考」というのはおそらく私が今読みつつあり、またもうすぐ読み終われそうな「サイバースペースは〜」がそれにあたるのではないかと思っている。もちろん、テロを支援するほどには過激ではないのだけれども。
それで、この「サイバースペースは〜」というのは、I期柄谷や、最近の宇野常寛、あるいは『アーキテクチャの生態系』や『構造と力』のような、相対的に「知られていない」言説について発掘的に紹介し、その紹介の際にアクロバティックな手法ときわめて明快な図式化を行うという系譜に収まる論考だと思われる。『郵便的不安たち』収録の「棲み分ける批評」は「相対的に知られていない言説」が対象になっているとは考えにくいのでちょっと違うかな。
サイバースペースは〜」が面白いのは、そこで中心的に論じられているのが「日本」の問題としては、とりあえず直接的には言及されていないところだ。もっとも、ここで論じられた論理的な枠組みはいくつかの別の日本文化論に引き継がれるわけだけれど。

*1:それはゼロアカが文フリで成功したとかそういうレベルの問題ではない、と私は思うのだけれども。