パクリフィリアのSM的嗜虐

東浩紀北田暁大編集の「思想地図vol.1」を買った。さっそく増田聡さん*1の「データベース・パクリ・初音ミク」を読んだので、感想を書いておく。

面白かったのは「パクリ批判」のところ。自らを「情報の束だ」と感じている人々が、「文化的剽窃」を、自らを構成する情報を奪いかねない行為だと考えて脅えているさまを増田は「パクリフォビア(パクリ恐怖)」と呼ぶ。私にとっては、自らを構成する情報がやすやすとメディアや市場を流通していくのを楽しみ愛する「パクリフィリア(パクリ嗜好)」のほうが馴染みがあるのだけれど。

でも「人間を構成する情報がやすやすとメディアや市場を流通する」状況に対する危惧の声が力を持っていることは否定できない。「パクリフォビア」は「パクリフィリア」に対する反動だろう。

いみじくも初音ミクで楽曲を歌わせる際の「創作的労力」は(増田は触れていないが)「調教」と呼ばれている。それは初音ミクという「キャラクター」に対する、性的暴力を想起させはしないか(性的暴力という表現はややスキャンダラスに過ぎるかも知れない。だが、意思を持たない者に対するサドマゾヒスティックな行為をほかに何と呼ぶべきか私には思いつかない)。

他者に対するサドマゾヒスティックな快楽は、相手を思い通りにする(いわゆるサディスティックな)喜びのほかに、思い通りにさせられている自分の姿を、相手の姿に重ねる(いわゆるマゾヒスティックな)喜びが含まれているという説を読んだことがある。初音ミクを「調教」し、その成果をニコニコ動画などで発表するときは、「パクリファイル(パクリ嗜好者)」が「パクリフォビア(パクリ恐怖)」的な感覚をも楽しんでいると考えることはできないだろうか。

註4で増田も触れていた「同人音楽」や、初音ミク以外も含めたネット上での著作権グレー(あるいは著作権に抵触する)プレイ*2の楽しみは、二次創作とともに、この「パクリフィリア・パクリフォビア」の錯綜する快楽にあると思われる。だからそこには、その錯綜を一身に引き受ける身体的な表象が求められるのではないか。

「データベース・パクリ・初音ミク」は、十分な推敲の余裕がなかった(というよりも言いたいことが多すぎて、それらを詰め込むことが優先されたというべきか)ためか、かなり違和感のある箇所もあった。

東浩紀の提起した「データベース消費」と、ヒップホップやテクノやハウスにおけるDJ的なサンプリングとの類似性が肯定されていたが、その記号論的な構造の複雑さの違いによって、両者に違いがあるという。

実際には註の4で増田も言及しているとおり、大ネタ使いによって「DJ的なサンプリング」と「データベース消費」の領域はほとんど重なるのではないか。またそもそも「DJ的なサンプリング」は具体的な例が挙げられる現象であり、対して「データベース消費」はより抽象的で適用範囲が広い概念だから、もとより重なる領域は当然生じるんだけど。

そしてマンガやアニメやゲームといった図像的な、二次元的な要素を含むメディアでの「データベース消費」*3と、「DJ的なサンプリング」とは(大ネタ使いを除けば)元ネタが明確ではないという点で大きく異なっていると増田は言うが、実はたとえばメイド服や猫耳の下ネタも明確ではない。強いて言えば、サンプリングは機械を使い、「データベース消費」は手描きだという違いがあるが、これはほとんどそれぞれのメディアの違いそのものであって、あらためて強調する意義が私にはわからない。

というわけで「DJ的なサンプリング」と「データベース消費」は、「大ネタ=キャラクター」「元ネタを秘匿しうるネタ=属性」のようにそれぞれ対応しているので、増田が言うような「記号論的に複雑な構造」による違いは認められない。ちなみにこのサンプリングとデータベース消費の違いを述べる冒頭以降は、増田自身も特にこの両者の違いを重視していないように思われた。端的な二項を設定することで、議論をスピーディに進ませたかったのだろう。

*1:ご無沙汰しております。ご挨拶もなくいきなりトラバしてしまい、大変恐縮です。

*2:「歌ってみた」や「踊ってみた」やMAD,AMVのたぐい・・・

*3:東は触れていなかったかも知れない(あとで確認します)し、増田の議論にも登場しない「BL」小説などの図像的・二次元的な要素の薄いメディアでのそれも妥当すると思う。

『アンチ・オイディプス』11日目
再開します。
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族
第五節 消費の連接的総合

同一化が、命名であり指名であるとすれば、擬装はこの命名に対応するエクリチュールであり、現実的なものにじかに触れる奇妙にも多義的なエクリチュールなのである。

擬装は、現実的なものを固有の原理の外に連れ出し、それが実際に欲望機械によって生産される地点にまで導くのだ。このときコピーはコピーであることをやめて、<現実的なもの>となり、またその巧緻となるのだ。

病気を患者の内なる家族的コンプレックスの中に包み込み(「包み込み」に傍点)、家族的コンプレックスそのものを転移の中に、つまり医者と患者との関係の中に包み込む(「包み込む」に傍点)ことによって、フロイト精神分析は、家族をある意味で強度〔内包〕的に使用していた

分裂分析の目的は、次のようなものになる。まず、経済的なものと政治的なものに対するリビドー備給の特殊な本性を分析すること。次に、これによって、欲望する主体の中で、いかにして欲望が自分自身の抑制を欲望することになるのか、明らかにすること(こうして欲望と社会とをつなぐ死の本能の役割が生じてくる)。

キーワード

今回は、あらためてオイディプス、それから欲望とリビドー、それからイデオロギーや反動がキーワードだろう。ファシズムオイディプスにおける家族主義に対する批判の序説的位置付けだったと理解して間違いはないと思う。消費についてはあまり語られていなかったのかも。

D.リンチのツインピークス

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のほう。続編というか、補遺にあたるのかな。本編も面白かったけど、サントラも秀逸。
ドーナツをアホになるまで食べたくなるので要覚悟。