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『アンチ・オイディプス』11日目
再開します。
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族
第五節 消費の連接的総合
同一化が、命名であり指名であるとすれば、擬装はこの命名に対応するエクリチュールであり、現実的なものにじかに触れる奇妙にも多義的なエクリチュールなのである。
擬装は、現実的なものを固有の原理の外に連れ出し、それが実際に欲望機械によって生産される地点にまで導くのだ。このときコピーはコピーであることをやめて、<現実的なもの>となり、またその巧緻となるのだ。
病気を患者の内なる家族的コンプレックスの中に包み込み(「包み込み」に傍点)、家族的コンプレックスそのものを転移の中に、つまり医者と患者との関係の中に包み込む(「包み込む」に傍点)ことによって、フロイトの精神分析は、家族をある意味で強度〔内包〕的に使用していた
分裂分析の目的は、次のようなものになる。まず、経済的なものと政治的なものに対するリビドー備給の特殊な本性を分析すること。次に、これによって、欲望する主体の中で、いかにして欲望が自分自身の抑制を欲望することになるのか、明らかにすること(こうして欲望と社会とをつなぐ死の本能の役割が生じてくる)。