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『アンチ・オイディプス』12日目
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族
第六節 三つの総合の要約
問題はオイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
欲望をオイディプスに関係づけるとき、私たちは欲望の生産的性格を無視するしかなく、この生産的性格は漠然とした夢や想像にすぎないものになる。
おまえはオイディプスを逃れられない。おまえは、「神経症的な出口」と「神経症的でない出口」との間で選択するしかない。(中略)オイディプスの帝国主義を認めない人びとは、危険な異常者であり極左であって、社会的政治的に抑制すべきである。
第一に、接続的総合の部分的かつ非特殊的使用が、オイディプス的、包括的、特殊的使用に対立していた。この包括的-特殊的使用は、両親的と婚姻的という二つの様相をもち、これらには、オイディプスの三角形と、この三角形の再生産が対応していた。
第二に、離接的総合の包含的または無制限敵使用は、オイディプス的、排他的、制限的使用に対立している。この制限的使用はさらに想像的と象徴的という二つの局をもっている。それはオイディプスによって相関的に規定された二項の間、つまり排他的象徴的区別と身分か状態の想像界という二項の間でしか、選択の余地をあたえないからである。この使用はこのとき、オイディプスがどのように作動するか、オイディプスの作法はどんなものか示している。これがダブル・バインド(「ダブル・バインド」に傍点)の、すなわち二重の袋小路の誤謬推理である。
第三に、連接的総合の遊牧的かつ多義的使用は、隔離的かつ一対一対応的使用に対立する。ここでもまた、無意識そのものの立場からすれば不当であるこの一対一対応は、いわば二つの契機をもっている。ひとつは、人種主義的、国家主義的、宗教的、等々の契機であり、隔離によって、オイディプスがいつも前提とする出発点の集合を構成する。これは、まったく暗々裏の仕方で構成されることさえある。もうひとつは家族的契機であり、適用によって到達点の集合を構成するのである。ここから<適用>という第三の誤謬推理が生ずる。この誤謬推理は、社会野の規定と家族的規定との間に一群の一対一の対応関係を打ちたて、こうした仕方でリビドー備給を永遠なるパパ-ママに還元することを可能にし不可避にして、オイディプスの条件を固定する。
私たちはまだ、実際に治療を狂信的なオイディプス化の方向に導く誤謬推理をすべて網羅したわけではない。欲望を裏切ること、無意識を託児所にあずけること。冗舌で傲慢な小さい自我のためのナルシス的な機械。資本主義的剰余価値のたえまない吸収。貨幣の流れと言葉の流れの交換。精神分析という果てしない物語。
脱オイディプス化すること、父-母の蜘蛛の巣を破壊すること、信仰を打ちくだき、欲望機械の生産と経済的社会的備給に到達することである。これこそが戦闘的な分析の領域であるからである。
分裂者の方しみは、彼をあらゆる面から締めつけるオイディプス化やハムレット化の方に、彼がもはや耐えきれないことからくるのではないのか。むしろ、器官なき身体の上にあって逃走し、その中に身を隠して、そこに閉じこもっていることの方がよいのだ。ささやかな喜びとは、プロセスとしての分裂症化であって、臨床実体としての分裂者ではない。