同じ対談から
これまで文学というのは、風景や内面を描くこと、その描写の妙をどう評価するかという点に、文学コードを設定し続けてきた経緯がある。それは、例えば大衆映画のようなストーリーやスペクタクルの力ではなく、細部の描写の発見によって作品を評価するということをやってきたわけですよね。教養を元に、政治や文化などを読み解いていくコミュニケーションの場として文学があった。これって、「DQN」は入ってくるなっていう態度です。ト書きの前近代的な読み物ではなく、黙読によって風景や内面を獲得することで近代人になれという「言文一致体」の小説には、そのような意味づけがあった。
ところが、ご存知の通りケータイ小説の多くには描写が一切ない。その代わりに、文字通りの「空白」がある。改行で作られた「空白」は、ケータイというデバイスでの読みやすさを考慮したものでありつつ、最低限の「展開」を書き記し、あとは空白にすることで、読者がそこに色々なネタを代入していくことである種のコミュニケーション空間を成立させている。それを、いわゆる文学コードを共有しない「DQN」とされた人たちがこぞって読んでいるとき、彼らに語るべき言葉みたいなものは用意していない。こういう状況を受けると、既存のコードだけで否定すること自体が滑稽にしか見えなくなってしまうわけ。そうなると、「ケータイ小説を人はこう捉えていて、文学は相対化されたよね」という社会学的な語りばかりが優位に立つ。
メディア論者としての荻上氏の出色の発言と思いました。そうそう、そうなんだよなーと。さすがにコンパクトに重要なことをまとめるとき、「批評家」はすごいと思います。