『アンチ・オイディプス』十九日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人
第五節 大地的表象

表象が常に、欲望的生産の抑制‐抑圧であるとしても、しかしその仕方は、それぞれの社会組織体によってきわめて異なる。表象のシステムは、その深層に抑圧される表象者、抑圧する表象、置き換えられた表象内容という三つの要素をもっている。ところが、これらの三者を現実化することになる審級そのものは可変的であり、システムの中にはもろもろの移動が起きる。

じじつ、もし交換が物事の根底をなすものであるとすれば、なぜ、負債はとりわけ交換の様相をとってはならないのか。なぜ、負債は贈与あるいはそのお返し〔逆贈与〕であて、交換であってはならないのか。そして、贈与するひとも、自分が交換を期待していないこと、いやそれどころか、あとからお返しがきて、結局は交換になることさえ期待していないことをはっきりと示すために、自分の物を盗まれた人間の立場に身をおかなければならないとすれば、それはなぜなのか。盗みはまさに、贈与とそのお返しが交換関係のカテゴリーに入ることを妨げるのである。

欲望は交換を知らない。欲望は、ただ盗みと贈与だけを知っている。

<声‐聴取>と<手‐表記>の二要素に加えて、<眼‐苦痛>という記号の第三の要素を、つまり二辺のほかに第三辺をつけ加えるべきではないのか。苦しみの儀式において、苛まれる人は声を出さないで、ことばを受け入れる。彼は能動的でなく、書記の働きを受動的に受けとめて、記号の押印を受けいれる。となると彼の苦痛は、この苦痛をみつめる眼にとっては、快楽以外の何であろうか。

法の馬鹿らしさと恣意性、通過儀礼の苦痛のすべて、抑圧や教育のまったく倒錯的な装置、赤熱の烙印、残虐な仕打ち、こうしたものは、人間を調教し、生身の肉の中に刻印し、人間に縁組を可能ならしめ、債権者‐債務者の関係の中で人間を形成するという意味しかもってはいない。債権者‐債務者の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する事柄である(未来にまで引きのばされる記憶である)。