『アンチ・オイディプス』二十一日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人
第七節 野蛮な表象、あるいは帝国の表象
(二十日目 「第六節 野蛮な専制君主機械」は引用したいところも、特に思ったこともなかった。)

とりわけ、表象の表層的組織において変化するのは、声と書体との関係である。ずっと昔の著者たちは、このことをよく理解していた。エクリチュールを作りだすのは専制君主であり、書体をもって、厳密な意味でのエクリチュールとするのは帝国的組織である。立法、官僚機構、経理、徴税、国家の独占、帝国の正義、官吏の活動、史料編纂、これらすべてが専制君主のしたがえる行列において書かれる。ルロワ=グーランの分析によって浮かび上がったパラドックスに戻ることにしよう。すなわち、原始社会が口承を用いるのは、この社会が書体を欠いているからではなくて、逆にここでは、書体が声から独立して、身体の上にもろもろの記号を刻印しているからである。これらの記号は、声に応答し、声に反応するものではあるが、しかし自律的で、声に同調しない。これとは逆に、野蛮な文明において文字が書かれるのは、この文明が声を失ったからではない。そうではなくて、書体のシステムが独立性と固有の次元を失い、声に同調し、声に従属したからである。

ジャック・デリダが、あらゆる言語は起源的なエクリチュールを前提としているというのは正しい。ただし、彼がこの起源的なエクリチュールというものによって、何らかの書体(広い意味でのエクリチュール)の存在や接続を意味しているならば、である。また彼が、狭い意味のエクリチュールにおいては、絵文字や表意文字表音文字などの手法の間に個別を確立することはできないといっていることも正しい。つまり、常に、またすでに、声の代用(代補)と同時に、声への同調が存在している。「音素組織は決して全能ではなくて、つねにすでに無声のシニフィアンを働かせ始めていたのである。」デリダが、さらにエクリチュールを近親相姦に、神秘的に結びつけていることも正しい。

まず大地的表象は、二つの異質な要素、つまり声と書体から成っている。ひとつは、いわば側方的縁組の中で構成された語の表象であり、もうひとつは、いわば延長された出自の中に設定された事物の(身体の)表象である。

声と文字の二つの要素の異質性、断絶、不均衡は、第三のもの、視覚的要素―つまり眼によって補われるが、眼は語を見るといってもよい(眼は語を見るのであって、語を読むのではない)。眼は、刻まれる書体によって引き起こされる苦痛を評価するからである。J・F・リオタールは、別の文脈において、次のようなシステムを叙述しようとした。このシステムにおいて語は指示的な機能だけをもっているが、しかしそれ自身では記号を構成しないのだ。記号になるのは、むしろこうして指示された物あるいは身体である。この物あるいは身体が、みずからの知られざる限定された一面を開示しているかぎりにおいて、そういえるのだ。この知られざる一面は語に対応する書体によって記される。ここでは、二つの間の距たりは、眼によってのみみたされる。眼は、体そのものに刻まれた書体から発する苦痛を評価するかぎりにおいて、語を読むことなしに、語を「見る」。つまり眼は飛躍するのだ*1。含意の体制、残酷のシステム。声‐聴取、書体‐身体、眼‐苦痛の三辺をもつ魔術的三角形はこのようなものと思われた。

シニフィアンとは、記号の記号となった記号であり、大地的記号にとって代り、脱領土化の敷居を踏みこえてしまった専制君主的記号なのだ。シニフィアンとは、ただそれ自体脱領土化した記号にすぎない。文字となった記号なのだ。欲望は、もはや、あえて欲望しない。それは欲望の欲望、専制君主の欲望の欲望となったのである。口はもはや語らない。口は文字を呑むのである。眼はもはや見ない。眼は読むのである。身体は、もはや大地のように自分を刻ませることはなく、専制君主の版画の前に平伏する。つまり大地の外なるもの、新しい充実身体の前に。

法とは、無限の負債が法的な形式をとったものである。

文庫本の上巻はこれにて終わり。引用しきれなかった部分も多く、非常に含蓄に富んでいた。上巻全体のまとめのような記述も多く、読み返す際はあらためて気をつけたい箇所である。

*1:原注57:J・F・リオタールはあまりにもないがしろにされてきた純粋指示の理論の権利を再構築している。彼は、言葉と物を含意する指示関係において、言葉と物が互に還元されえない隔たりをもっていることを指摘している。そして、この隔たりのおかげで、指示された物は、隠された内容として未知の面を露呈することによって、記号となる(ことばは、それ自身において記号であるわけではない。それは、自分が指示する事物や物体を記号に変えるのだ)。同時に、指示する言葉は、見られる(読まれるのではない)という奇妙な能力をあらわすことによって、一切の<書記‐読解>とは無関係な見えるものとなる。―「言葉は記号ではない。しかし言葉が存在するとたちまち、指示される対象は記号となる。ひとつの対象が記号となるということ、それはまさにその対照が、明白な自己同一性の中に、隠された内容を秘めているということを意味し、またその対象を見る別の視線に別の面を割り当てるということである……。この別の面は、恐らく決して捉えられないだろう。」しかし反対に、この別の面は、言葉そのものにおいて捉えられるのだ。