「サイバースペースは何故〜」東浩紀を再読2

昨日に引き続き「サイバースペースは何故〜」を読んでいる。昨日読んだ第一章で例に挙げられたギブスン的な一元論的なメディア体験に対して、今日読んだ第二章ではディック作品におけるメディア体験の「不気味さ」(フロイト)を議論し始める。
つまりフロイトにおいては、快感原則は局所論*1(場所論)を原理的に超えており(空間的)、必然的に「反復強迫」すなわち「不気味なもの」が導きだされる(後期フロイト)。抽象空間で情報は「複数の情報処理装置(意識/無意識)」によって処理されるが、この互いに争っている装置のあいだにおいては常に「先取りした処理」や「処理の遅れ」が相対的に生じうる。この相対的な処理結果の相違こそがフロイトにおける「不気味な」体験なのだというのが東の指摘である。
局所論は「ひとの精神の統一性」を説明する。だが「不気味な」体験が端的に示しているように、精神において情報(=欲動)は分散しうる*2
東によれば、ディックの作品世界においては「世界」の統一性が分散させられており、この特徴こそが、ギブスン的な一元論的なメディア体験とはことなった分散的なメディア体験なのだと述べている(んだと私は思うんだけれども)。

*1:「意識・前意識・無意識」や「自我・超自我エス」など

*2:むしろつねに分散し続けているというべきかも知れない←完全に私見かも