『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』再読中。

2-5まで読了。2001年の『動物化するポストモダン』における「データベース」とシミュラークルの二層構造のイメージと、1998年の『存在論的、郵便的』で議論されたデリダのメディア論的・精神分析的な認識論とを繋ぐような内容かといよいよ思われてくる。「思想地図」で募集していた「声優の声」論の読解にも役立ちそうな感じ。というのは、ちょっと違うかも知れないのだけれど(後述する)。
今回までの内容は、2-4についてはディックがいかにカルフォルニアイデオロギーと深く関係していたか、そしてそのカルフォルニアイデオロギーがある種のポストモダニズムの例であることについて、2-5ではカルフォルニアイデオロギーにおける「サイバースペース」のモチーフがどのような位置づけにあるのかについて、タークルとストーンらのようなカルフォルニアイデオロギーのイデオローグたちに支持された論者と、「批評空間」「InterCommunication」にも訳出されていたジジェクの二つの「サイバースペース」論を紹介しながら議論する。
2-5におけるジジェクとタークルの精神分析的な議論は、ラカンの理論が現代的なメディア状況においてどのようにアップデートされうるかを考える意味で重要であり、2-4におけるディックとカルフォルニアイデオロギーとの関連に触れた部分はフィクションと実際の思想との関連について紹介しているという意味で不可欠だと言えるだろう。
2-5の精神分析的なモデルについての議論が興味深かったのでここでも紹介したい。

彼女たち二人の主張は基本的に単純であり、インターネットや仮想現実をめぐる通俗的なイメージの学問的対応物と見なしてよい。たとえばタークルの著書においては、ウィンドウをたえず切り替えながらコンピュータの前で作業することは「同時に多数の世界に存在し、多数の役割をこなす脱中心化された主体の生きた実践」にほかならず、またIRCやMUDの一般化は「現実生活を優位なものとする考えに挑戦する」ものだと記されている。(中略)情報環境の変化は「主体」を解体し、現実を複数化し、そのことによって1970年代に弓観られたポストモダニズムを実現したというわけだ。
サイバースペースの登場を近代的な(1960年代以前の)二項対立の止揚契機として捉えるこの種の言説は、カリフォルニア・イデオロギーと同じ構造を備えている。事実、タークルとストーンはカリフォルニア・イデオローグに支持されている。

しかしジジェクはこれには同意できない。なぜならラカン精神分析の認識によれば、「ある同一化から別の同一化へと次々に移行していくという件のプロセスには、あるアイデンティティから別のアイデンティティへと飛び移ることを可能にする空集合のようなものが必要であ」り、「この空集合こそが主体そのもの」だからだ。現実の複数性は決して主体の単一性を脅かさない。(中略)
タークルの議論では、一貫して「スクリーン」の効果が重視されている。アイデンティティの複数性は、彼女によれば、スクリーン上に複数のウィンドウが開け、それぞれのなかに異なった仮面(ペルソナ)が存在し、そのひとつひとつに同一化することで生じる。(中略)各主体は自己のアイデンティティを、スクリーン上のイメージから借り受ける。それゆえイメージが多数あれば、必然的にアイデンティティも複数になる。
ならばジジェクはどうか。彼の議論が「空集合としての主体」を導入するのは、ラカン精神分析は「想像的同一化」と「象徴的同一化」を峻別するからである。想像的同一化はひとに自己イメージを与えるが、それだけではひとは主体にならない(鏡像段階)。ラカン派によれば、ひとが主体になるには、さらに「大文字の他者」へと同一化する必要がある(象徴界への参入)。(中略)
ラカンの考えでは人間と動物は、自分自身もまた見られていることを知っているか否か、つまり自己言及的な認識の有無で峻別される。ひとが「人間的主体」になるためには、スクリーン(「見えるものle visible」)からイメージを借りるだけでなく、それに加えて、自分を見ている他者の視線(regard)を与えられる必要がある。その過程が「象徴的同一化」と呼ばれる。視線は絶対に「見えないものl'invisible」であり(ひとは他者の目を見ることはできるが、視線を見ることはできない)、それゆえスクリーンの背後に位置づけられる。
ひとは想像的同一化によって自己イメージを獲得し、象徴的同一化によって見られているという意識を獲得する。付け加えれば、世界=スクリーンの背後に位置するその不可視の視線は、ラカン派の術語では一般に「大文字の他者Autre」あるいは「象徴界」と呼ばれ、そこへの同一化は社会全体を支える象徴秩序を信認することに等しいと考えられている。人は見られるという意識をもつことで、社会化(象徴的に同一化)するわけだ。
そしてここで重要なのが、同一化のその二重構造こそが「仮面と戯れることjouer du masque」「騙すことtromper」を可能にするというラカンの指摘である。騙すこと(または騙されること)の意識は、「見えるもの」と「見えないもの」、自分に見えるものと他者に見えるもの、つまり想像的同一化と象徴的同一化のずれの認識を前提とする。そのずれを知らない動物は、騙されることはあっても、「騙されている」と意識することはないからだ。
ジジェクのタークル批判は、実はここから導かれている。もし現代の人々がコンピュータ・スクリーンのうえでたえず仮面(ペルソナ)を交換し、複数の現実のあいだを移動しているのだとすれば、それは彼らがイメージ(想像的同一化)と視線(象徴的同一化)の差異をすでに知っているからである。言い換えればジジェクの考えでは、複数の人格=イメージを身にまとう能力は、逆にひとがそのいずれもを本当の自分だと信じないことではじめて可能になる。

1980年代の後半以後、コンピュータ文化は決定的にその態度を変える。現在のユーザーは、もはやスクリーンの「背後」に関心をもたない。人々はいまでは、インターフェイスを額面どおりの価値で、つまりinterfaceをat the face valueで受け取る(at the interface value)。チャットの相手が「女性」として自己紹介すればそれは端的に女性と見なされるのであり、その会話が実際に男性により書かれたものかどうか、あるいはプログラムによって自動生成されたものかどうかは、あえて問わない。だからこそ仮想人格が成立する。これがタークルの認識である。
この変化はまさに、「大文字の他者」の弱体化を反映しているように見える。「見えないモノ」への関心は象徴的同一化を通じてはじめて設立されるのであり、それが機能不全に陥った社会では、人々は「見えるもの」、スクリーンだけで自足してしまう。(中略)
それゆえ私たちは、ジジェクが指摘した彼女の理論的「欠陥」を、むしろ、ジジェク自身も指摘していた社会的病理の反映として捉えなおすことができる。タークルの分析に象徴的同一化が欠けていたのは、単に理論的に単純だからというわけではなく、そもそもそれを要請した社会で象徴的同一化が機能不全に陥っていたからではないだろうか。

背後の弱体化によって、背後よりもスクリーンを信じる逆転現象が生じる。象徴界の弱体化こそが、「サイバースペース」を、言い換えれば象徴的同一化の機能不全こそがスクリーン上の仮想世界を生み出したのだ。
「at interface value」的主体は、仮想現実をあえて信じる。しかしこの「あえて」は自由を意味しない。ジジェクが『イデオロギーの崇高な対象』で多くの事例を挙げて示したように、主体は象徴界にあえて騙されるが、にもかかわらずその仮面を手放すことができない。たとえば、スターリニズム下の人々は、スターリンの無能さを十分に知っていたにもかかわらず、スターリンという「裸の王様」を手放すことが決してできなかった。主体は象徴界の虚構性を(意識で)知りつつ、同時にそれに(無意識で)依存している。
まったく同じ欲望の構造が、「at interface value」的態度においても反復されている。たとえばタークルの著書は、「サイバースペースにおけるレイプ」に触れている。その問題は1993年にジュリアン・ディベルにより定期され、以後広い社会的関心を呼んだ。そこで興味深いのは、ディベルが注目した「レイプ」が、テクストベースのMUDにおける出来事、つまり文字で記された仮想人格に向け、文字でなされたものだったことである。それは完全にスクリーン上の、しかも被害者が作り上げた虚構の人物に向けられた「行為」であり、彼らの現実生活とはまったく関係がない。この点でそれは、ハッキングのような「ネット犯罪」とは本質的に異なっている。被害者もまたそれを自覚している。にもかかわらずその「レイプ」が現実の外傷的な効果をもったことは、逆に、彼らの主体がその仮面(騙されること)に依存していたことを示している。仮想現実の現実性とスターリニズムの流通力は、この限りで同じ論理で説明される。

私たちは、「at interface value」の精神分析的な構造について、ここまでジジェクの議論を参照してきた。しかしそこにはひとつ修正すべき部分がある。彼は、インターフェイス的主体性においては象徴界の論理が「逆転」し、背後よりもスクリーンが信じられると述べていた。この整理は正確ではない。「at interface value」的態度の特徴は、タークルが強調したように、端的に背後を認めないことにある。インターフェイス的主体性においては背後よりスクリーンが選ばれているのではなく、はじめからスクリーンしか存在しない。したがって「逆転」という表現は適当ではない。
またジジェクは「逆転」の根拠として、インターフェイス的主体が、言葉より目、象徴(シンボル)よりイメージを選ぶと指摘したが、それもまた現実と合っていない。たとえば前述した「サイバースペースにおけるレイプ」は、あくまでもテクストベースのMUDで生じた事件であり、視覚イメージはいかなる役割も果たしていない。そこでの仮想現実感「at interface value」的態度はむしろ、目よりも言葉、イメージよりもシンボル(文字)を信じることで維持されている。そしてシンボルのこの優位は、GUIや仮想現実の構成一般を支えている。「デスクトップ」や「ゴミ箱」はイメージではなく、あくまでもシンボル、ブレンダ・ローレルの表現で言えばメタファーなのであり、だからこそ人々は「コンピュータとともに演技する」必要がある。家庭用ゲームやアニメーションの「現実感」もまた決して目で想像的(イマジナリー)に感じられるものではなく(むしろ眼はたえずその虚構性を暴露している)、各主体が図像(アイコン)の象徴性を受け入れてはじめて構成される。したがって、ジジェクが主張する「逆転」は起きていないと考えられる。
(中略)
筆者はここで、「at interface value」的態度においては、スクリーンそのものが二重化されているという観点を導入したいと思う。インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも、他方で(言葉で)現実だと信じる。目よりも言葉に現実性の根拠を置くその選択自体は、前述した象徴界の論理と変わらない。
しかしそこで決定的に異なるのは、目と言葉、イメージとシンボル、仮想現実の虚構性を伝える情報と現実性を仮構する情報とが、ともに並んでスクリーンの上に見出されることだ。(中略)つまり彼らはMUDの仮想人格やゲームのキャラクターを、一方で文字や絵として扱いつつ、他方で「人格」とも見なすのであり、この処理のずれ(あえて騙されること)こそが仮想現実に現実性を、またインターフェイス的主体に主体性を与える。

なお、少なくとも2-5では簡明さを期すために省略されてしまっているが「声優の声」論に関連すると思われるのは、タークルと並んで名前を挙げられていたアルケール・ローザンヌ・ストーンによる「テレフォンセックス」にまつわる議論。

cf.Allquere Rosanne Stone, The Way of Desire and Technology at the Close of Mechanical Age, MIT Press, 1996, ch.4 ストーンによれば同一化の欲望は声の背後、不在の性的身体に向けて駆動される。それは必然的に、現前的イメージへの同一化を重視するタークルより複雑な議論になる。しかしストーンが注目する「不在」はあくまで個々の身体についてのものであり、絶対的不在である「大文字の他者」の概念は欠けているようだ。

とのこと(2-5、註72より)。声優の場合はアニメの図像とアイドル的な声優の身体とに身体イメージが分裂し、ラジオやドラマCDあるいは挿入歌などもあるわけで、「不在」とまではいかないもののかなり不安定な「イメージと声」の関係が生じているわけで。「思想地図」にはどのような声優論が掲載されるのか(この路線はないのかも知れないけど)、楽しみだ。

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

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