東浩紀

サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』再読中
今日は2-6を読んだ。いよいよ『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』との接合点としての「サイバースペース」論が展開されていく。
要約するとれば
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』を頼りにしながらリアリズムとモダニズムがともに依拠する「目」あるいは「耳」の遠近法的な認識論が、フーコー『言葉と物』でも指摘されていたように、20世紀にいたる「理論」を構造的に支えている。ソプチャクが唱えた「リアリズム(写真的・現前的):モダニズム(映画的・再現前的):ポストモダニズム(電子的・シミュレーション的)」という3つの時代性を引き合いに出しながら、2-5でも言及したタークルやストーンに至るまでソプチャク自身やボードリヤールヴィリリオなどにも共通して語られる「シミュレーション」という概念の曖昧さが、彼らの20世紀的な「理論」構造にデリダのいう「目と耳のあいだ」としてのエクリチュールの集積としてのスクリーン(膜)が欠如しているからではないか、ということ。

もう少し詳しく書くと、
メルロ=ポンティが最晩年の『見えるものと見えないもの』で指摘した「見えるもの(見られるものでもある二重的存在者としての身体):見えないもの(見えない存在としての身体=肉体)」の対立、が幕(膜ではなく)としてのスクリーン(=見えるもの)とそれの背後にあるもの(=見えないもの)という対立と同型である。これは近代的(リアリズム/モダニズム的)であり、ラカン派(ジジェク派)のコプチェクによる映画論批判にも通底しているし、ソプチェクの述べた「写真的」「映画的」な時代論も同様だと東は述べている。
対して、ソプチェクが「電子的(ポストモダン的、シミュレーション的)」とした時代のスクリーンはもはや「背後」を持つ「幕」ではなく「膜」のようなものであり、メルロ=ポンティ的な「見えるもの:見えないもの」の対立ではなく、「膜」のうえの二つの「見えるもの(シンボルとイメージ)」しかないとされる。この視覚性(ヴィジュアリティ)の転回は、クレーリーがビデオの登場に代表される20世紀後半の映像環境の変化を「中世的な図像のシステムをルネサンスの遠近法から分かつ切断よりもおそらくははるかに深いであろう、視覚性の本性の変容」と位置づけているもの。
とりあえず2-6はこのような感じでサクサクと視覚論が整理されている。ここまでつづいていたSF論は今回は抑えられているのは、恐らく次回からよりラディカルな「サイバースペース」論が展開されるからだろう。私がかつて「ユリイカ」の連載で読んだのはたぶんもう少しあとの方。
ところで私は東氏が最近とりたててプッシュしている宇野常寛という人がどうも好きになれないのだけれど、彼がそんなにもプッシュするのだから何がしか良いところがあるに違いないと思って色々と考えている。東浩紀が自身のブログで「おいおいなんだよこのバカ、こいつこんなんで一人前のつもりかよ、それならおれの実力見せてやんよ」という「幼稚な対抗意識がとても大切になっている」と書いているように、それなりの強度を保ちつつ東に挑戦してくる若手を待望しているということが関連しているのかも知れないと思うに至り、なんとなく宇野のポジションが了解できるようになった気がしている。
ちなみに以前にも書いたけれど、「インターネット的なもの」をある程度「影響力が強い」というスタンスでいる東浩紀と、それに対して「インターネット的なもの」の「影響力は弱い」とする大塚英志のようなスタンスとの二項対立的な図式も描ける。ただし、宇野に関して言えば、東は「インターネット的なもの」についての評価は宇野に近いというような発言もしている。このあたりの整理がなかなかつかなかったんだけれど、宇野のポジションについて考える経緯でこんなことに思い至った。つまり、表層的かつ市場戦略的には「インターネット的なもの」の影響力には「限界がある」という点では東は宇野と意見を同じくしているが、より抽象的かつ理論的には「インターネット的なもの」について東と宇野とはおそらく意見が一致していないのではないか。
これは飽くまで推測なのだけれど、宇野常寛は『動物化するポストモダン』以前の、いわゆる哲学者としての東浩紀をまったく読んでいないか、端的に読めていないのではないだろうか。もし読んでいるのであれば、どのような読解・評価なのかを是非教えていただきたいものだ。もし東が宇野を、より深く支持しているのであれば、この点においても、宇野は東の正当な批判者足り得ていると思われるからであり、哲学者としての東浩紀に注目している私にとっても非常に興味深いからだ。まだ読んでいないのだけれど、もしかして新潮の最新号に掲載されている宇野の論考「母性のディストピア」はこのあたりに切り込んでいるのだろうか。
宇野による東に対する批判は、「アライブ2」での酔談を真に受けるならば、2次元キャラクターに対する性欲を考慮するか否かという精神分析的な問題系において恐らくもっとも先鋭化している。東浩紀が『動ポモ』以降にサブカルチャー批評をしていた時期を終えて最近また文芸的なところに「回帰」してきているのは、宇野常寛からの批判に応えるために、あらためて理論的な仕事に向かってきているのではないかと私には思われる。
宇野が東のポルノゲーム贔屓を批判しているように、東が実際に取り上げたサブカルチャー的なジャンル群以外にも「現代的」な大衆文化は多々存在している。宇野と東とが本当に対決しうるとすれば、それらが東の批評眼の射程の限界の外に位置しているのかどうかということになるだろう。だが現在私が再読中の「サイバースペース」は、今回要約したように「リアリズム、モダニズム」以降の、中世以来のパラダイムを超えた「ポストモダン」のパラダイムを切り開くものとして書かれている。『動ポモ』でポルノゲームを東が取り上げたのはそれが単にキャッチーだったからであって、東にとってのポルノゲームはおそらくそれ以上の特権性は認められていないだろう。ポルノゲームやラノベを擁護する評論家としての東浩紀について、そのセンスを古いと言って切り捨てる宇野は確かに「東よりも新しいセンス」を持っているのかも知れないのだが、「ポストモダン」を論じる批評家としての東浩紀の理論的地平に対しては、実はまだ拮抗しうる強度を持ち得ていないのではないだろうか。
とはいえおそらく、東が「ポストモダン」を論じるための哲学的博覧強記を形成していた時代を過ごしていたのに対して、宇野は宇野で日本のサブカルチャー評論を地道に続けていた背景があり、東に宇野が理論的に拮抗しないように見えるのは、私が東浩紀の哲学的仕事を中心に考えており、また「批評」という概念を、より哲学的で西洋中心主義的な理解で捉えているからに過ぎないとも言えるだろう。東が宇野を評価しているのは、東が自身を評価しうる哲学的あるいは「批評空間」的ないしはニューアカ的な「批評」とは違った「批評」を担う論者が現れたと考えているからではないか。
それはかつて東が「徹底したポストモダン」と呼んだ現在において、モダニスト的な東が理論的にとらえきれないものを宇野(宇野常寛力!?)が視野に収め得ると考えているということでもある。

見えるものと見えないもの

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<女>なんていないと想像してごらん

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観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

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