追記

↑で書こうと思ってて忘れてたので補遺。つまり、東は自分が哲学を勉強していた関係で「ゲンダイ思想から現代日本を見てしまう」のに対して、宇野はそういった東の出自からはある程度は距離をとって批評を行うことができていることを評価しているのではないだろうか、ということを書きたかったのだった。
ちなみに宇野については、「批評」という行為が元来持っている暴力性に関して東よりも批判の深度が低い気がしている。このことについては上記のように整理してみても弱まるものではない。
これは両者の出自の違いだけに回収するべきことではなくて、「生き方論」としての批評の本質にかかわることだと私は思っている。その限りで、きちんとしたアンチ宇野派の形成を期待してやまない。