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『アンチ・オイディプス』6日目
第一章 欲望機械
第六節 全体と諸部分
ここで問題になっているのは、オイディプスとの関係において前オイディプス的(「前オイディプス的」に傍点)といわれるものが相対的にどれだけの重要性をもつかといったことではまったくない(なぜなら、「前オイディプス的」ということは、やはり発生的あるいは構造論的にオイディプスを参照しているからである)。問題は、欲望的生産が絶対的に非オイディプス的(「非オイディプス的」に傍点)な性格をもっているということである。
ところが、メラニー・クラインは、全体の見地を、つまり包括的性格をもつ人物や完全な諸対象を認める観点を保存しているので、しかもおそらく、彼女は、「オイディプスを認めないものは、なんぴともここには入れない」と扉に書きつけた<国際精神分析協会>とのいざこざを避けようとするので―、彼女はオイディプスの首枷をはねのけるために、部分対象を役立てようとはしない。
欲望機械や部分対象は、何も表象しない。つまり部分対象は表象的ではないのだ。部分対象はたしかにもろもろの関係を支え、様々な代行者を配分するものであるが、これらの関係は間主体的ではなく、同様にこれらの代行者は人物ではない。
今日もここらへんで切り上げ。第一章の最後の節だから大事に読もう。
(↑後日追記、続きを読んでみたところ、引用したい部分がなかったのでそのままになってしまった)