『アンチ・オイディプス』13日目
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族
第七節 抑制と抑圧

オイディプス的欲望は少しも抑圧されていないし、また抑圧される必要もない。それなのに、別の側面では、この欲望は抑圧と密接な関係をもっている。オイディプス的欲望はおとりであり、あるいは歪曲されたイメージであって、これによって抑圧は、欲望を罠にかけるのだ。欲望が抑圧されるのは、それが母への欲望であり、父の死を欲するからではない。逆である。欲望がそういうものになるのは、それが抑圧されているからであり、欲望がこうした仮面をつけるのは、それが抑圧のものとにあって、抑圧が欲望に仮面をつくり、仮面をかぶせているからにすぎない。

欲望が抑圧されるのは、どんなに小さなものであれ、あらゆる欲望の立場は、社会の既成秩序を糾弾する何かを含んでいるからである。

欲望はその本質において革命的なのである。―祝祭ではなく欲望なのだ!―どんな社会も、真の欲望の立場を受け入れるなら、搾取、隷属、階層の諸構造を危険にさらすことになる。

ひとつの社会がこれらの諸構造と一体であるとすれば(面白い仮説である)、そのときは、なるほど、欲望は本質的に社会を脅かすことになる。だから、欲望を抑制し、さらには抑制よりももっと有効なものをさえ見つけだし、ついには抑制、階層、搾取、隷属そのものが欲望されるようにすることが、社会にとって死活にかかわる重大事となる。

この研究の始めから、私たちは次の二つのことを同時に主張している。ひとつは、社会的生産と欲望的生産とは一体であるが体制を異にし、したがって生産の社会的形態は欲望的生産に対して本質的な抑制を行使するということと、もうひとつは、欲望的生産(「真の」欲望)が、潜在的に社会形態を吹き飛ばすような何かをもっているということである。

それにしても、抑制さえもまた欲望されるとすれば、「真の」欲望とは何なのか。いかにこれらを区別するのか。

オイディプスを現実化し、抑制的社会によって組織され要請される袋小路の中に欲望を拘束するのは、欲望の抑制あるいは性的な抑圧であり、つまりリビドー的エネルギーの鬱積なのである(「鬱積」に傍点)。

抑圧は、その作用の無意識的性格と、それがもたらす結果によって、抑制から区別されるのであるが(「反抗の禁止さえ無意識的となった」)、この区別はまさにこの両者の本性上の差異を表現している。

抑圧は、抑制が意識的であることをやめて、欲望されるべくそんざいする。そして抑圧は、事後の欲望を導き出すのであるが、これは抑圧の対象の偽装されたイメージにすぎず、これこそが抑圧に、あたかも独立しているかのような外観を与えるのだ。本来の意味での抑圧は、抑制に奉仕する一手段である。抑圧が及ぶものとは、また抑制の対象でもある。この対象はまさに欲望的生産なのだ。

抑圧を委譲された代行者、あるいはむしろ抑圧へと委譲された代行者とは、家族なのである。