『アンチ・オイディプス』二十四日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人
第十節 資本主義の表象

夢において、リオタールは、きわめて美しい文章で、そこで働いているものがシニフィアンではなく、むしろその下にある形象的なものであり、それがイメージの配置を生起させることを指摘している。このような配置は語を用い、もろもろの流れと点にしたがって語を流れさせ、あるいは切断する。流れと点は、言語学的なものではなく、シニフィアンにも、それに規制される諸要素にも依存しないのである。したがって、いたるところでリオタールは、シニフィアンと形象の秩序を逆転させる。形象の方が、シニフィアンやその効果に依存しているのではない。シニフィアンの連鎖の方が、形象的なものの効果に依存し、それ自体もろもろの非シニフィアン的な記号によって作られ、シニフィアンシニフィエも破壊して、語を事物として扱い、新しいもろもろの単位を作りだし、具象的でない形象によって、形成されては崩壊するもろもろのイメージの配置を形成するのである。そしてこうした配置は、いわば、もろもろの点による切断を含む流れのようなものである。同じように、これらの点は、流れたり、漏れたりするものの流率法を含んでいる。自己同一性をもたない唯一の単位とは、流れ-分裂あるいは切断-流れという単位である。リオタールは、純粋に<形象的なもの>の要素、すなわち「形象-原基」を、いみじくも欲望と名づけている。

リオタールの初期の主著『ディスクール、フィギュール』読みたい!なんで邦訳されてないんだ!

分裂症と資本主義との関係は、生活様式や環境やイデオロギーなどの問題をはるかに超えて、唯ひとつの同じ経済の、唯ひとつの同じ生産プロセスの根底的水準で提起されるべき問題であったのだ。私たちの社会は、ドップのシャンプーやルノーの自動車と同じように、分裂者たちを生産するのだ。ちがうのは、彼らは売れるものではないということだけである。

分裂症は資本主義そのものの外的極限、つまり資本主義の最も根本的な傾向の終着点であるが、資本主義はこの傾向を抑止し、この極限を拒絶し置き換えて、これを自分自身の内在的な相対的極限に代えなければ機能しえない。資本主義は拡大する規模において、この相対的極限をたえず再生産するのだ。資本主義は、一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反する傾向をもったマルクス主義の法則は、こんなふうに解釈し直さなければならない。したがって分裂症は、資本主義の地平のすみずみまで浸透している。

いまはただ奴隷たちが他の奴隷たちに命令を下しているだけである。もはや、外から動物に負荷を与える必要はない。動物自身がみずからに負荷を与えるのである。人間が技術機会の奴隷だからではない。そうではなく社会的機械の奴隷であって、ブルジョワはその実例なのだ。

つまり欲望は、決して騙されることがない。利益は騙され、誤解され、裏切られるが、欲望にこのようなことはありえない。だからライヒは叫ぶのだ。いや、大衆は騙されたのではない。大衆はファシズムを欲した。まさにこのことを説明しなければならない……。ひとは自分の利益に反して欲望することがある。資本主義はこのことを利用するが、しかし社会主義も、党や党の指導部もこれを利用する。欲望が、誤認ではなく、完全に反動的な無意識的備給である行動に身を委ねることは、いかに説明したらいいのか。

流れのコード化に対応する未開の大地機械においては<含意-接続>のシステム、超コード化に対応する野蛮な専制君主制においては<従属-離接>のシステム、流れの脱コード化に対応する文明の資本主義機械においては<調整-連接>のシステム。脱領土化、公理系、再領土化は、現代の社会体における欲望表象の三要素である。