『精神分析の抵抗』より
そしてだからこそ、1971年の『ポジシオン』の中で、つまり「真実の配達人」を発表するよりも4年も前に、私はこのことを述べておいたのだし、先ほどマジョールもこのことを想起させてくれたが、ラカンに対する私の理論的「対決=闡明」は、「みずからの仕事をそれ特有の諸々の方途と要請に従って続けることに存していたのであり、この仕事はいつくかの軸に沿ってラカンの仕事に接近することになるやも知れず、そればかりか、私はその可能性を決して排除しないが、今日他のどんな仕事に対してより以上にそうなるかも知れないのである」。
これこそは、私が彼を深く愛しており、大いに賞賛していることを告げるやり方だったのではなかろうか?そして、私の気に入るように彼にオマージュを捧げるやり方だったのでは?私が、哲学と共にかつ哲学抜きに、ラカン抜きに、ラカンと共にかつラカン抜きに「心理=真実は必要である」と言ったのは、この同じテクストの中でのことであった。
で、それ以来、事はどうなったか?それ以来、私たちは一度もこのキアスムから外へ出たことがないのか?私はそうは思わない。このキアスムから発して―このキアスムはと言えば、私にとって、ラカンのディスクールをしてあまりに哲学的なディスクールたらしめるものだった。すなわちそれは、もちろんこの件に関するあらゆる種類の否認にもかかわらずだが、私がそれとのあらゆる契約を、破棄するのではなくて―幾度となく言ってきたようにそんなことには何の意味もない―再検討しつつあったところのすべての人たちに対してあまりに信を置き過ぎるディスクールたらしめるもの、したがって、サルトル流の新‐実存主義(『エクリ』に至るまでのラカンのディスクールにおけるその残滓を人は充分に語りあるいは標定してこなかった―そこでは疎外や真正性といったディスクールが依然として支配しているのである)に対してあまりに信を置き過ぎる、つまりは師たるヘーゲル/コジェーヴに対してあまりに信を置き過ぎるラカン的ディスクールたらしめるものであった(そしてヘーゲル/コジェーヴは、同時にハイデガーでもある、と言うのは、コジェーヴは精神の現象学をただ単に人間化しているだけでなく、ご存じの通りハイデガー化してもいるからである。これは当時実に興味深いことであった(略))
「ラカンの愛に叶わんとして」
知が想定されたものでしかありえないところ、したがって想定が知に場所を与ええないところ、いかなる知も異議をとなえられないところでは、秘密の効果の生産、私たちが、主要な秘密(secret capital)、あるいは秘密の資本(cpital du secret)に対する思弁=投資(speculation)と呼ぶことができるようなものの生産が起こっている。こうした秘密の効果の、計算されたしかし結局は計算しえない生産は、模像=擬態(シミュラークル)を当てにする。
(・・・)
虚構的全能と、神的な、「疑似-神的な」、模像=擬態(シミュラークル)により神的な、同時に神的かつ悪魔的な力、それらがまさに、これ以後、医者の顔がまとわされることになる<悪しき霊>の顔立ちなのである。
(・・・)<悪しき霊>は、ある時は、狂気の側に、ある時は、狂気の<閉め出し=再適応化>、壁を持つ、あるいは持たない施設の、外部あるいは内部への、狂気の閉じ込めの側に、位置している。矛盾は、おそらく、言うならば、事象自体のかにあるのである。そして、誤る(間違う(avoir tort)、あるいは、害を及ぼす(faire tort)という場合のtort(誤り、不正))ことが、いつにもまして、或る一定の道理(=理性)の側にいること、ひとが<理性をまもる(raison garder)>と呼ぶものの側、そこにおいては、まさしくひとが正しい(=道理を持つ)側、正しい(avoir raison=道理を持つ)ということが、一つの暴力によって、<……に打ち勝つ/……する理由を持つ(avoir raison de)>ことを意味し、しかも、その暴力の巧妙さ、すなわち超弁証法的かつ超交錯法的手段が、完全には形式化されえない、つまり、もはやメタ言語のなかに統御されえない領域に、私たちがいるということなのだ。これは、ひとがつねに、あの強力な、強力すぎる論理が、私たち以前に、そして私たちを超えて、作り上げる結び目に捕えられていることを意味している。
(「フロイトに公正であること」)
- 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,鵜飼哲,守中高明,石田英敬
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