ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』読み始めて2日目
第一章 欲望機械
第二節 器官なき身体

欲望機械と器官なき身体との間に、あからさまな戦いがまき起る。諸機械の接続、機械の生産、機械のノイズ、いちいちの場合にそれらは器官なき身体にとって耐え難いものとなってきた。この身体は、もろもろの器官の下にいまわしい蛆虫や寄生虫がうごめくのを感じ、この身体に器官を与えて台なしにし窒息させる神の行為をかぎつける。

「身体は身体だ/他に何もない/器官などいらない/身体は決して有機体ではない/有機体は身体の敵なのだ」

資本とは、まさに資本家の、あるいはむしろ資本家という存在の器官なき身体なのだ(「器官なき身体」に傍点)。しかし、こうしたものとして資本は、単に貨幣として固体化する流体的実体なのではない。資本とは、貨幣の不毛性に対して、貨幣が貨幣を生むという形態をつけ加えるのである。

器官なき身体は欲望的生産に折り重なり、これを引きつけ、これを自分のものにする。器官機械は、器官なき身体にしがみつく。

器官なき身体、この非生産的なもの、消費不可能なものは、欲望の生産の全過程を登録する表面の役割を果しているので、外見上の客観的運動からすると、欲望機械はこの表面から発現してくるように思われる。

欲望的生産は、線型状の二項的システムを形成する。充実身体は、系列の中の第三項として導入されるが、2・1・2・1…という二項的性格を捨てることはない。この系列は、オイディプスのそれのような、典型的に三項からなる三角形の形態の中にこの系列を移行させ、そこで系列を鋳直すような書き込みに対しては全面的に抵抗する。

この身体は、自分自身の自動生産を、自分自身による発生を示しているというのに、どうしてあなたがたは、この身体が両親によって生み出されることを望むのか。

以上、今日の引用は終わり。