器官なき身体と資本主義

今回の「第二節」は、中盤の資本主義に関するくだりが意味不明だった。部分的には難しいとは思わなかったのだけれど、器官なき身体という概念が資本主義の説明のための概念なのか、あるいは資本主義に関するくだりが器官なき身体を説明しているのかが結局わからない。単にレベルの違う相似の話題が併記されているようにしか読めなかったのだが、、、。
器官なき身体」という抽象的な概念と、それと同じレベルの抽象度をもつ概念群(生産とか両親とか)による解説文が一方にあり、他方で、より具体的な資本主義にまつわる構図がある。資本主義にまつわる構図は、器官なき身体とそれと同じレベルの概念群によってより抽象化されたかたちで表現しうると思うんだけど、そのように書かれているように僕は読めなかった。何故そう読めるように書かれていないのか気になる。
ちなみにその資本主義に関するくだりとは「それにしても、中断することのないプロセスの中で器官なき身体がその後にふるう力を思い浮かべるために、私たちは欲望的生産と社会的生産との間の並行関係を考察しなければならない」で始まる段落以降を指している。要するに僕はこの「欲望的生産と社会的生産との間の並行関係」の考察の必要性がわからないんだと思う。僕はこれらが本当に並行関係なのか、疑問符を付したいのだと思う。

生産力と担い手とは、奇蹟のような形をとって、充実身体の力そのものとなる。この両者は、充実身体によって奇蹟を授けられたように見えるのだ。

つまり、パラノイア機械の後に、奇蹟を授ける機械が続くことになる。

器官なき身体は神ではなく、まさにその反対である。しかし、器官なき身体があらゆる生産を引きつけ、これに対して奇蹟を授ける力をもつ魔法の表面として働き、これらの生産をあらゆる離接において登記するとき、この器官なき身体を貫通するエネルギーは神聖なものとされる。

だから、神聖なものとは、離接のエネルギーの性格なのである。

フロイトは、とくにシュレーバーの錯乱に、また一般現象としての錯乱において、こうした離接的総合の重要性を力説している
(中略)
しかし、なぜフロイトはこんなふうにつけ加えるのか。よく考えてみると、ヒステリー的神経症の方が根本的であり、もろもろの離接作用は、根源における凝縮の投影によってえられるだけである、と。おそらくこれは、錯乱の神の中に、また分裂的−パラノイア的な登録の中に、オイディプスの様々な権利を保持するための手だてなのであろう。だからこそ私たちは、この点に関してまったく一般的な疑問を提起しなければならない。欲望の登録は、オイディプス的な諸項を経由するものなのか。もろもろの離接は、欲望がたどる系譜の形態にほかならないが、この系譜はオイディプス的なものなのか。オイディプス的三角形化の中に登記されるものなのか。それとも、オイディプスは、社会的再生産のひとつの要求、あるいはひとつの結果ではないのか。社会的再生産は、あらゆる点で自分の手におえない系譜的質料や形相を飼いならそうとするからである。

以上を読み直してみて、資本主義のくだりが、器官なき身体が「欲望機械」とどのような関係にあるのかを説明しているのかもしれないと思うに至った。とりあえず疑問は解消されたこととする。