ドゥルーズ×ガタリ『アンチ・オイディプス』を読み始めました。
第一章 欲望機械
第一節 欲望的生産

いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。

乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。

<エネルギー機械>に対して、<器官機械>があり、常に流れと切断がある。

すべては機械をなしている。天上の機械、星々または虹、山岳の機械。

もはや、ここには人間もなければ、自然もなく、ただ一方を他方の中で生産し、もろもろの機械を連結するプロセスだけがある。いたるところに、生産する機械、あるいは欲望機械が、分裂症的機械が、つまり類的生命そのものが存在する。私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別は、もう何も意味しないのだ。

オイディプスは、欲望機械のとてつもない抑圧を前提として成立しているのだ。

おそらく、ある水準においては、自然と産業ははっきりと区別される。すなわち、ある面で、産業は自然に対立し、別の面で、産業は自然から原料をひきだし、また別の面では、産業はその廃棄物を自然に返している。等々。自然−人間、自然−産業、自然−社会というこの弁別的関係は、社会の中にさえも「生産」「分配」「消費」と呼ばれる相対的に自立的な領域の区別を存在させる条件となっている。しかし、こうした一般的な水準の区別は、発展した形式的構造の中に認められるもので、(マルクスが指摘したように)それは単に資本と分業の存在を前提としてるだけではなく、資本家という存在が事故についてもつ誤った意識と、全体的過程に属する諸要素の固定を前提としている。

生産はそのまま消費であり、登録なのである。登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。だから、すべては生産なのだ。

欲望機械は二項機械であり、二項的規則、あるいは連合的体制をそなえた機械である。

ひとつの機械は常に他の機械と連結している。生産的総合すなわち、生産の生産は、「そして」et「そして次に」et plus...という接続的な形態をもっている。つまり、ここには常に生産する機会と、この機会に接続されてこの流れを切断し採取する働きをするもうひとつの機会が存在する(母乳−口といった関係がそうである)。

あらゆる機械が機械の機械であるように、欲望的生産は生産の生産なのだ。

たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性なのである。

もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していた時、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。

死の充実身体は、みずからは動かずして欲望を動かすもの

欲望機械は、たえず自分の調子を狂わせながら、まさに変調の状態において作動するのである。

器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でもない。とりわけ、それは何かの投影ではない。固有の身体そのものとは、身体のイメージとは無関係である。それはイメージのない身体なのである。

器官なき充実身体は、反生産の領域に属している。しかし、生産を反生産に、また反生産の一要素に連結することは、やはり接続的総合、あるいは生産的総合のひとつの特性なのである。

以上引用終わり。