『アンチ・オイディプス』読みだして四日目
第一章 欲望機械
第四節 唯物論的精神医学

精神分析の偉大な発見は、欲望的生産の、無意識のもろもろの生産の発見なのだ。しかし、オイディプスの出現とともに、この発見はたちまち新たな観念論によって蔽い隠された。つまり工場としての無意識のかわりに古代劇場が、無意識の生産の諸単位のかわりに表象が、生産的無意識のかわりに、もはや自己を表現することしかできない無意識(神話、悲劇、夢)がいすわったのだ。

欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的総合(「受動的総合」に傍点)の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。ただ抑圧によって、固定した主体が存在するだけだ。欲望とその対象とは一体をなし、それは機械の機械として、機械をなしている。欲望とは機械であり、欲望の対象もやはりこれに接続されたもうひとつの機械である。

欲望的生産にねらいを定める社会的抑圧が巨大な規模で存在するという事実は、少しも私たちの原理を損なうものではない。欲望は現実的なものを生産する、つまり欲望的生産は社会的生産と別のものではない、これが私たちの原理なのである。

もろもろの幻想は、むしろ二次的な表現であり、こうした表現は、与えられた環境における欲望機械と社会的機械の同一性から派生してくるのである。だから、幻想は決して個人的なものではない。