流れの脱コード化と社会体の脱領土化は、こうして資本主義の最も本質的な傾向をなすことになる。資本主義はこの自分の極限にたえず接近するのであり、これはまさに分裂症的なものである。資本主義は、器官なき身体の上で、脱コード化した流れの主体として、全力をあげて分裂者を生みだそうとするのだ。

じつは私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生みだすものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。