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あとがきから
今回は引用が少なかったので、宇野邦一による「訳者あとがき」から、興味深い部分を引用する。
シニカルな資本主義は、次々シニカルな思想を生み出すので、「器官なき身体」を「身体なき器官」によって脱構築しようとするような試みも生まれてくる。そもそもドゥルーズとガタリにとって、「身体なき器官」は、「器官なき身体」の危険そのものであり、「器官なき身体」と同時に部分対象の群れとして生み出されうるものであった。
例えば、スラヴォイ・ジジェックは、ドゥルーズの思想的中心を、むしろ「身体なき器官」と名付けている(『身体なき器官』長原豊訳:河出書房新社)。かつてとりわけ『意味の論理学』でドゥルーズが示したのは、あくまで非身体的な、非物質的な、不毛にして無であり空である表層的次元である。ドゥルーズは、言語存在を支える「意味」を、そのような次元として説明した。それはたとえばチェシャ猫の身体から分離された、純粋なチェシャ猫の笑いである。ジジェックにとって、それは「非有体的領域に参入する」ために「身体的切断」を実行する「去勢」の成果そのものである。確かに『意味の論理学』のドゥルーズは、オイディプスも去勢も、絶対に表層的、非身体的な次元を記述するために必要な概念として援用していた。ひたすらドゥルーズのこの面だけを評価するジジェックにとって、『アンチ・オイディプス』は、ドゥルーズがガタリに「押しやられる」ことによって成立した「最悪の本」である。
人間が身体と自己を切断(去勢)することによってある空虚(非身体)を生み出すことは、そもそも人間が精神であることに他ならない。ユーモアたっぷりに見えて、そういう自分の信念だけは決して笑うことのできないジジェックは、『アンチ・オイディプス』の生成、生産、そして器官なき身体の理論を、ドゥルーズの非身体の哲学を裏切るものとして批判する。これは奇妙な切断といわなくてはならない。