『アンチ・オイディプス』読みだして5日目
第一章 欲望機械
第五節 欲望機械

欲望機械は隠喩ではない。それは、三つの様式にしたがって、切断し切断される。第一の様式は接続的総合にかかわり、リビドーを採取のエネルギーとして動員する。第二の様式は、離接的総合にかかわり、<ヌーメン>を離脱のエネルギーとして動員する。第三の様式は、連接的総合にかかわり、<ヴォルプタス>を残滓エネルギーとして動員する。まさにこうした三つの様相において欲望的生産の過程は同時に生産の生産であり、登録の生産であり、また消費の生産である。採取すること、離脱すること、「残滓になること」は、生産することであり、また欲望の実際の操作を現実に実現することである。

今回の第五節で重要と思われたのはこの箇所。以下に、上記の理解の助けとなると思われる部分を引用する。

■様式について

様式とは、破たんが作用そのものの部分をなし、切断が機械的接続の部分をなしている様式のことである。

■第一の様式

およそ機械はすべて連続した物質的流れ(つまり質料)とかかわり、機械はこの流れを切りとるのである。機械はハムを切断する機械として作動する。切断は、連合する流れから何かを採取する働きをする。たとえば肛門とこの肛門が切断する糞の流れとの関係。口とミルクの流れとの関係、さらに口と空気や音の流れとの関係。ペニスと尿の流れ、そしてまた精子の流れとの関係。連合する流れは、それぞれ、理念的なものとして、豚の大きな腿の果てしない流れとして考慮されなければならない。じじつ質料は、物質が理念上所有している純粋な連続性を示している。

切断は連続に対立するどころか、むしろ連続の条件をなし、切断されるものを理念的な連続性として含んでいる。あるいは切断されるものをそのようなものとして定義するのである。

あらゆる機械は、その機会が接続されている他の機械との関係においては流れの切断であるが、その機会も、それに接続されている別の機械との関係においては、流れそのものであり、流れの生産である。まさにこれが、生産の生産という法則である。したがって、横断的あるいは超限的接続の極限においては、部分対象と連続的流れ、切断と接続が一体となっているのである。

■第二の様式

およそあらゆる機械は、一種のコードをそなえ、このコードは機械自身の中に組み込まれ、その中にストックされている。このコードは、身体の様々な領域に登録された伝達されるということと不可分である。ひとつの器官は、さまざまな接続に応じて、いくつかの流れにつながれうる。この器官がいくつかの体制の間をさまよい、他の器官の体制を引きうけることさえありうる(たとえば拒食症的な口)。こうして、機能に関するあらゆる種類の問題が提起されることになる。すなわち、いかなる流れを切断するのか。どこで切断するのか。いかにして、またどのような様式で切断するのか。他の生産者あるいは反生産者に、いかなる場所を残すべきなのか(たとえば、弟の場所はどこなのか)。

コードは一般の言語活動よりも、隠語に似て、開かれた多義的な形成体である。そこで記号は任意の性質をもち、その支持体とは無関係なるものである(あるいはむしろ、この支持体の方が記号に無関係なものではないのか。支持体とは、器官なき身体である)。

■第三の様式

欲望機械の第三の切断は、<残余または残滓−切断>であり、機械の傍にひとつの主体を、機械の隣接部品として生みだす切断である。ところで、この主体が、特定の人称的な自己同一性をもたず、またこの主体が、器官なき身体の未分化状態を破壊することなくこの身体を横断するとすれば、この主体が単に機械の傍のひとつの部分であるからだけではなくて、それ自体分割されたひとつの部分であるからだ。