『アンチ・オイディプス』16日目
第三章 未開人、野蛮人、文明人
第一節 登記する社会体

欲望と生産の未開の原始的統一体とは、大地である。なぜなら大地はただ分割される多様な労働対象ではなく、また不可分な唯一の総体でもあり、自然的あるいは神的な前提として、生産諸力の上に折り重なり、生産諸力を自分のものとして所有する充実身体なのだから。

大地は、生み出されることなく、始めから存在する大いなる鬱積であり、土地の共同体的な所有と使用を条件づける生産よりも上位の要素である。

<大地>という表面に、生産のあらゆる過程が登記され、労働のもろもろの対象、手段、力が登録され、生産の代行者や生産物が分配される。ここで<大地>は、生産の準原因として、欲望の対象として現れる(この<大地>の上で、欲望と欲望それ自体の抑制が結びつく)。

したがって大地機械(「大地機械」に傍点)は、社会体の最初の形態であり、原始的登記の機械であり、社会野を蔽う「メガマシン」である。大地機械は、もろもろの技術機械と同じものではない。

技術機械は手動的といわれるような最も単純な形式においても、すでに、作動し伝達しあるいは動力として働きさえもする非人間的な要素を含んでいる。この要素は、人間の力を拡張し、ある意味で人間を解放する。これとは逆に、社会的機械は人間を部品として扱う。たとえ、人間を彼らの使う機械とともに(「とともに」に傍点)考察し、作動、伝達、動力のあらゆる段階において、彼らをひとつの制度的モデルの中に統合し内部化するとしても、こうして社会的機械は記憶を形成することになる。このような記憶なしには、人間とその(技術的)機械との共働はありえないだろう。

切断とは、流れの採取、連鎖からの離脱、取り分の配分のことである。流れをコード化することは、こうしたあらゆる操作をともなう。

社会は、まず、循環し循環させることを本質とする交換の場であるとはいえない。そうではなくて、それは登記の場としての社会体であり、記すこと、記されることを本質とする。循環が成立するのは、登記がそれを要求し、あるいはそれを可能にする場合だけである。このような意味で、原始大地機械の方式と、これらの流れをそれぞれに生産し切断しうる諸器官そのものが、部分対象として囲まれ、構成され、社会体の上に配分され、固着しなければならないからである。仮面とは、まさにこのような器官の制度にほかならない。

統一性は決して、固有の意味でも、「私的な」意味でも、人物の中にはない。そうではなくて、もろもろの器官の接続、離接、連接を規定する系列(「系列」に傍点)の中にある。したがって幻想は、いつも集団の幻想なのである。

器官に対する集団的な備給こそが、欲望を社会体に連結し、社会的生産と欲望的生産を、大地の上でひとつの全体の中に統合する。

(精神だけが、糞をする能力をもっているのだ)。

構造、つまりまだ実現されていない潜在性が存在するのか。まさに資本主義があらゆる社会につきまとうように、普遍的なオイディプスがあらゆる社会につきまとうと、考えるべきなのか。すなわち悪夢として。この悪夢、予感の対象とは、流れの脱コード化、諸器官からの集団的な脱備給、つまり欲望の流れが<抽象的になること>、器官が<私的なものになること>なのだ。

登録し登記する社会体の本質は、もろもろの生産力を自分に帰属させ、生産の代理者を分配するものであるかぎり、入れ墨をすること、切除すること、切りこむこと、切断すること、生贄にすること、手足を切断すること、囲むこと、秘伝を手ほどきすることである。

ニーチェは言っている。肝要なのは人間に記憶を与えることだ、と。人間は、忘却という積極的な能力によって、生物学的な記憶を抑圧することによって人間となったのであるから、今度は別の(「別の」に傍点)記憶を身につけなければならない。それは集団的な記憶であり、物の記憶ではなく言葉の記憶である。効果の記憶ではなく言葉の記憶である。それは残酷のシステム、恐るべきアルファベット、身体にじかに記号を刻む組織化である。

<残酷>とは文化の運動であって、これは身体において作動し、身体の上に刻まれ、身体をえぐる。残酷という言葉はまさにこのことを意味している。

死や罰や拷問さえもが欲望されるのであり、また生産過程でもある

人間の言語活動を可能にし、人間に言葉の記憶を与えるのは、登記される記号の、あの残酷のシステムであるといわなければならない。