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欲望機械の第二の様式、および第三の様式に関して、<ヌーメン>と<ヴォルプタス>という概念が繰り返されているので、第四節までで<ヌーメン>と<ヴォルプタス>について述べられている部分を引用する。

■ヌーメンに関して
「第二節 器官なき身体」より、「生産の登録」に関連したくだり
(第二節についてはhttp://d.hatena.ne.jp/negative-naive/20080410#1207841103を参照のこと)

欲望的生産の接続的「労働」をリビドーと呼ぶのなら、私たちは、このエネルギーの一部が離接的登記のエネルギー(ヌーメン)に変換されるといわなければならない。これは、エネルギーの変換なのである。

続いて、

無意識の問題があらゆる多義性を浮かび上がらせているのに、なぜエネルギーのこの新しい形態を、神聖なものとか<ヌーメン(「ヌーメン」に傍点)>〔神霊〕とか呼ぶのか。この問題が宗教的であるといっても、それは外見上のことにすぎないのだ。器官なき身体は神ではなく、まさにその反対である。しかし、器官なき身体があらゆる生産を引きつけ、これに対して奇蹟を授ける力をもつ魔法の表面として働き、これらの生産をあらゆる離接において登記するとき、この器官なき身体を貫通するエネルギーは神聖なものとされる。

また欲望的生産の二項的システムと、オイディプスの三項的システムとの関連にふれたくだりで

この身体は、自分自身の自動生産を、自分自身による発生を示しているというのに、どうしてあなたがたは、この身体が両親によって生みだされることを望むのか。そして、まさにこの身体のうえん、それがあるところに、およそ投影の働きなどとは無関係に<ヌーメン>は分配され、もろもろの離接作用が確立されるのである。

■ヴォルプタスに関して
「第三節 主体と享受」で、神と享楽に触れて
(第三節についてはhttp://d.hatena.ne.jp/negative-naive/20080411#1207928821を参照のこと)

生産のエネルギーとしてのリビドーの一部が登録のエネルギー(ヌーメン)に変容したのと同様に、登録のエネルギーの一部は消費のエネルギー(ヴォルプタス(「ヴォルプタス」に傍点))に変容するのである。まさにこの残滓のエネルギーが無意識の第三の総合、「だから、これは……である」《c'est donc...》という連接的総合、すなわち消費の生産を推進する。

続いて、クロソウスキーによるニーチェの注釈に関して

自我は円環の中心を放棄したが、いまや主体がこの円環の円周上に広がっている。中心にあるのは、欲望の機械であり、永劫回帰の独身機械である。この機会の残滓的主体として、ニーチェ的主体は、この機械が回転させるあらゆるものから、読者がニーチェの断片的著作にすぎないと思っていたあらゆるものから、幸福感に満ちた報償(ヴォルプタス)を引き出してくる。