日本精神分析再考
http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20081114
↑で知ったのですが、柄谷行人の『日本精神分析』をテーマにしたシンポジウムが日本ラカン協会第8回大会で開催される模様です。詳細は以下のとおり。
午後2時〜5時30分
〈 日本精神分析をめぐって 〉
提題者 : 柄谷 行人 (文芸評論家・思想家)
日本精神分析再考提題者 : 若森 栄樹 (独協大学)
日本における精神分析の可能性と不可能性提題者 : 石澤 誠一 (大阪府立大学)
阿闍世=親鸞 vs. オイディプス=フロイト
――精神分析学的知見と近代日本文化
ちなみに、午前には
11:00-11:45 萩原 優騎 (日本学術振興会特別研究員PD)
「象徴界は衰退しているのか」
司会: 川崎 惣一 (北海道教育大学釧路校)
というプログラムもあり、これはこれで気になる。ちなみに日程は12/7日曜。
公式:http://www.k4.dion.ne.jp/~lsj/congres.html
柄谷の『日本精神分析』は「日本精神の分析」と「日本の精神分析」のどちらとも読めるように書いた、とか柄谷本人が語っていたけれども、そこまで複雑に込み入った話を詳細に展開したという本ではなくて、まさに「再考」が待たれるような、導入の導入ていど、ヒントを読者に提示するだけの本だったと思う。でも結構好きだったので、あらためて取り上げられるのはとてもうれしい。
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/06/08
- メディア: 文庫
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*追記
昔メモってたのはこんな箇所
p.73-77
精神分析学者ラカンの言葉でいえば、日本では、いわば是会宗教による虚勢が「排除」されたために、「自己」が形成されなかったというべきなのです。それは仏教がただちにいかなる抵抗もなく「根づいた」ことと矛盾しない。つまり、何もかも受け入れることは、ある種の排除の形態なのです。その結果、仏教はいたるところに浸透しながら、外来的なものとしてありつづけている。
(中略)
古代の東アジアにおいて、文字をもったのは中国だけでした。その周縁諸民族が「文化」をもつとは、漢字を受け入れることでした。中国において「文化」とは漢字を使用することを意味したのです。ところが、「孤立語」である中国語に適した漢字を、「膠着語」の言語を持つ民族が受け入れることには、困難がありました。もちろん、漢字は象形文字ではなく、表意的であると同時に表音的であります。古代に漢字を受け入れた諸民族は、漢語をそのまま受け入れると同時に、自らの(音声的)言語を表示するために表音的に用いたのです。
(中略)
漢字は日本語の内部に吸収されながら、同時につねに外部的なものにとどまっているということです。たとえば、漢字で書かれたものは、外来的で抽象的なものだと見なされます。たとえば、漢字で書かれたものは、外来的で抽象的なものだと見なされます。そのことは、明治以後の日本の書き言葉において、より複雑になります。最初、西洋概念は漢字に翻訳されたのですが、同時にカタカナで表記するという方法が用いられたのです。カタカナは仏典など漢文を読むための補助として用いられてきたので、外国語を表示するのに向いていたといえます。
(中略)
とにかく、三種の文字を使って語の出自を区別している集団は、日本のほかには存在しない。しかも、それが千年以上に及んでいるわけです。こうした特長を無視すれば、文学はいうまでもなく、日本のあらゆる諸制度・思考を理解することはできないはずです。
p.83-84
音読みは訓読みを注釈するのに十分だとは、何を意味するか。それは、二hン後の音声は、ただちに漢字の形態に変えることができるということです。いいかえれば、音声とは別に、それを感じで表示して意味を知ることができるというこです。ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導きだした理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよいでしょう。精神分析は「無意識を意識化する」ことにあるが、それは音声言語化にほかならないわけです。それは、いわば無意識における「象形文字」を解読することです。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。それでは「無意識からパロールへの距離が蝕知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、日本人は無意識(象形文字)とつねに露出させている―真実を語っている―からです。
もちろん、私はラカンがいっていることに賛成できません。実際、彼は半ば冗談をいっているのだろうと思います。ただ、彼が日本人の精神分析においてその困難を察知するとともに、その核心に、日本語の文字表現で音訓併用がなされているという事実に気づいていたと思います。それはさすがだ、と思うのです。
このあたりについて、ラカン協会の大会という場でガチに議論がされるのであればさぞかし刺激的だろうと思うんですが。なお、最近はてな界隈で話題の水村美苗氏はかつてこの柄谷行人が深く関わった批評空間で小説を連載していたし、漢字・平仮名・カタカナ(ときにはアルファベット)を混在させて使う日本語の問題を考えるにあたっては、この種の問題も無視できないというのが私見です。