文フリに出店します

続報出しました→http://d.hatena.ne.jp/negative-naive/20091128/1259388417
12月6日(5日じゃなかった!すいません!11月27日追記)の文学フリマにて、デザイナーの迫田容満(左腕、1057)氏とのサークル「終りの会」で出店することになりました。(R-11です。11歳以下は読めません(←嘘)。)

今回は「サーバーパンク」をテーマにした「クロニック・ラヴ」という名前の同人誌を頒布します。
表紙はポストポッパーズの藤城嘘さんと左腕君とのコラボです。
「サーバーパンク」が何なのかは提案してる僕じしんでも、いまだによくわからないんだけど、集まった原稿はどれも面白いので出来上がりが楽しみです。*1

構成と各原稿の仮題を一足お先に公開すると

  • インタビュー「技術と時間(スティグレール)をめぐって」
  • 論考「故障したコンピュータは電気狂人の夢を見るか――物質的脆さについての試論――」
  • エッセイ「ネットと現実のあいだの彼の死について」
  • マンガ「最終世界系少女☆すーぱーふるいど」
  • 小説「ホリゾナル・ラヴ」

以上です。

谷島貫太氏の論考のボリュームが凄いです。1本で2万字近い(笑)。
内容は「デリダ」以降を代表するフランスの哲学者スティグレールの思想の簡単な紹介から、その範疇に留まらずひろく「忘却」について語るものになる予定です。ただいま絶賛編集中。

この同人誌の発端は、ヴィジュアル系好きということで意気投合した僕と左腕君とが何かやろうということで始めたもの。テーマになった「サーバーパンク」は、今度個展をやる梅ラボさんmogragというギャラリーのポッドキャストで「ネットで集めた画像が1テラある」と発言していたのを聞いて思いついた造語。

僕は東浩紀の仕事のなかでは個人的には「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」が一番重要な論考だと思っていた。というのも、メディア論としても読める「存在論的、郵便的」はあまりに抽象的で、かつ後半ちょっと人生論的な方向に舵を切ってしまった嫌いがあり、また「動物化するポストモダン」「ゲーム的リアリズムの誕生」は対象が広すぎると思っているから。
サイバースペース〜」は、人がPCのモニタに向かい合うということと、「動物化する〜」の時期によく東浩紀が発言していた「象徴界の弱体化」とを結びつけたもので、「存在論的、郵便的」の哲学者としての東浩紀が、朝生にも出る評論家としての東浩紀に変わっていく過渡期に書かれたものだと言っていいと思う(実際、両者はずっとシームレスに繋がっていると言うべきなんだろうけど)。
ありとあらゆる人がすべてPCのモニタばかり見ているわけではないことと、またラカンの用語として「象徴界」に触れること、それぞれ注意が必要ではあるのだけれど、ひとつの考え方として「サイバースペース〜」で述べられていたことの妥当性や可能性は重要なものだと私は考えている。
それは凡百の「メディア論」が前提にする素朴な「人間の感覚のアップデート」でもなければ、単純な道徳観の追認あるいはそれに基づく「現代への警鐘」でもなかった。

伊藤計劃とか、マトリックスとか、ポップトパンクについて、とか書きたいことはたくさんあった。松平さんの同人誌『新文学02』に掲載してもらった自分の論考(最終稿が締め切りブッチ切りすぎて採用されなかった)とか、それで言及したもろもろのこと、特にレガシーっていう問題系についてとか、悔いが残る。しかし編集ってマジで大変なのなー。。。


藤城嘘氏の絵を元に左腕くんが作成した本誌のチラシ。拡大して細部まで見て欲しいクオリティ。

左腕君のデザイン力は凄い。コンテンツも良いけど、非常に美しい出来上がりになりそうな気がしている。見本誌を何度か見せてもらっているけど、ほんとにキレイだった。

表紙とか確定したら追記する予定

*1:編集方針としては役に立ったんだけど、同人誌全体のちゃんとしたテーマにはできなかったような気がする。可能性はあるテーマではあるけれど、それをうまく咀嚼して編集に活かすことができなかった。ちょっと反省。コンテンツは面白いのを集められたと思う。

昨日は星野太くん(最近彼の名前を見ると同時に「ほしのふうた」を思い出すようになった)が八丁堀のギャラリー(?)「Otto Mainzheim Gallery」で行ったトーク「DJのテクネー」を聞いてきました。

周りに飲食店が殆どないのはアレでしたが、ギャラリーの展示もギャラリーの雰囲気じたいもとてもよくて楽しかったです。DJがかける音源やDJの歴史ではなくて、もう少し抽象的に話されることって少ないと思うので貴重な体験でした。

トークの内容は僕が聞き取った限りでは以下の通り。過不足や誤解もあると思うのでその点は予め了承ください。つっこみは大歓迎です。そのあとで私見も展開してみたい。

まずはDJの機材環境の概説。ターンテーブルCDJとミキサーについてそれぞれの部位と機能の説明、あとそれぞれの配線とか。CDJを特別な機材として紹介していなかったり、DJのスタイルによってインプットの数が違ったり、サンプラーやマイクを使うケースのことを話していなかったのが印象的だった。要は内容を簡略にするためだったのだと思う。僕だったらそこはつい触れてしまって時間を食ってしまったろうな。

続いてDJのミックスの種類について概説。曲を突然終わらせて次の曲に移行する「カットアップ」と、曲と曲をフェードイン・フェードアウトさせながら交差させる「メドレー」とを対比したあとで、より暴力的なものとして「マッシュアップ」を取り上げていた。このあたりはかなり大雑把な整理で、トークのあとの質疑でもつっこまれていた。ただし、ローカルでハイプなジャーゴンが入り乱れて飛び交い、勝手な解釈でどんどん流布していくアングラカルチャーとポップカルチャーの用語だということを考えれば、いったんかなり乱暴に用語を整理して、議論を展開するなかで精緻化するしか方法はないと思うので、上記の分類のそれ自体での妥当さというのは重要じゃないと思う。

最後は「音楽を再生すること」というトーク自体のテーマについて。たぶん時間があまり残っていなかった関係、および話題がマニアックな方向に行きそうだという理由で、この部分はあまり掘り下げられていなかったという印象を受けた。興味深かったのは「戦場としてのミキサー」という表現と、「手」について言及していたところ。

以上がだいたいの要約で、以下に感想というか私見をまとめてみたい。
まず「戦場としてのミキサー」というところだけど、DJ論といえばともすると音源=レコードとそれの音を拾う場所、直接的に「演奏」されるものとしてのターンテーブルが重視されがちなのに対して、作曲者・トラックメイカーとしてのDJ、あるいはDJ的な音楽として認識されるクラブミュージックが生成されるところとしての「ミキサー」を中心的に取り上げたのは面白かった。そして複数の音源がマッシュアップにおいて「衝突」させられることの面白さに言及していたのも重要だと思う。

トークの後の質疑でも指摘されていたし、星野君じしんも認めていたように、その「衝突」じたいを楽しむというスタイルはDJにおいて最近登場したものではなく、DJの歴史上にいくつも顕著な例があったし、そもそもDJ以外にもスタジオワークやサンプリングミュージックではよくある話だった。それこそシュトックハウゼンとかは異なる楽曲の文脈の衝突を電子音楽の変調によって「解決」して文化の多様性を担保しうる音楽を作ろうとかしていたわけだし。だからここで重要になるのは「マッシュアップ」という言葉のニュアンスということになる。

マッシュアップ」という言葉のニュアンスには、異なる素材を「ちょっと混ぜちゃう」「気軽に作ってしまう」という含みがある。IT界隈で「マッシュアップ」といえば、既存の異なるwebサービスを組み合わせて新しいサービスを作り出すということである。元々は音楽業界のバズワードだったものをIT業界が盗用していることなのだけれど、ITにおける「マッシュアップ」を例にすると音楽の方のマッシュアップのニュアンスも説明しやすいと思う。

ITにおいても、既存のものを組み合わせて新しいサービスを作るというようなことは以前から行われていた。新しい状況というのは、たとえばオープンソースの考え方の定着・普及、あるいはユーザーの拡大によって、APIのような簡単に高度なサービスを流用しやすい環境が生まれてきたことだろう。

音楽においてはこれは、DJという音楽のスタイルの定着・普及、DJ的な行為をする人やリスナーの拡大、DJツールの廉価化といった環境の変化が「マッシュアップ」の背景にはある。これは星野くんも言っていた重要なことだと思うけれど、「マッシュアップ」という言葉の普及にはロック出身者が多い。ロックにはスタジオワークスの前景化や、高度な演奏技術や機材を必要としないローテク讃美の系譜(これってヨーロッパ後期印象派以降の「フォーヴ」志向が絶対に関わっていると思うんだけど)、あるいは「やったもん勝ち」「アイデア一発勝負」的なスタイルの伝統があって、その流れで「マッシュアップ」が評価されているというのはあるんじゃないだろうか。

ただ、もしそう言えるとしたら、「マッシュアップ」はDJだけのものではなく、簡単に既存曲を組み合わせることができるすべての演奏者・作曲者が扱いうるものということになるだろう。実際、ムネオハウスとかニコ動におけるIKUZOマッシュアップの流行とかは、必ずしもDJによる仕事ではない。「マッシュアップ」はDJだけのものではないけれど、ではDJの「マッシュアップ」においては何が問題になるんだろうか。

そこでクローズアップされるのが「手」ということになるだろう。レコードを選び、タンテを擦り、ミキサーのフェーダーを操る「手」。書道で言うならば「筆致」にあたるものが、DJの「手」から生み出される。エフェクターを使うならそのツマミを握る「手」、サンプラーを使うならそのパッドを押す「手」、L?K?Oみたいに足も使ってミキシングするならその足も機能的には「手」になるだろう。

だからこれからのDJ論というのは、音源や歴史について語るのも面白いけど、ミキサーについて語って他ジャンルとの地続き性との相性を語ったり、そのミキサーのうえでどのような「戦争」が演じられているかを語ったり、そこで戦っている「手」のスリルについて語るのが面白いんじゃないかと思うんだよね。

それでこそストリーミングDJとかラジオDJとかPCDJの可能性が言語化されるんだと思うし。

DJによるのではない「マッシュアップ」で、星野君に教えてもらったSONYのサービスはコレ。音楽の「マッシュアップ」を、ITの「マッシュアップ」で実現したもの。似たようなのでインターフェースがもっとオシャレなやつをなんかの雑誌で読んだんだけど、そっちは完全に失念してしまった。「Intercommunication」とかそういう雑誌だったんだけど。あれ、「SITE ZERO」だったっけなあ。
http://www.musicmashroom.com/

追記:「SITE ZERO」の最新号の「バベルのタワーレコード」だ。徳井直生氏による「Massh!」をめぐる文章だった。Massh!はこちら。
http://www.sonasphere.com/mash/
これ、tomad君もかつてブログで触れてて、よく知られてるみたい。
なんか以前に触ってみたときは使いにくかったんだよなー。

日記を書くのはどれくらいだろう、、、。

コミティア88の戦利品を備忘までに列記。
『Karneval』(有)化野水産:
触手ファンタジーもの。八年間の活動の総集編とのこと。それぞれの作品も読んでみたい。
http://www15t.sakura.ne.jp/~isshi/x/index.html
※↑エログロ注意


『強制!サナダムシダイエット』:
サークル名が書いてないやこれ。手にとったときと買ったときの計二回、売り子(作家さん?)に笑われました。


『馬渕美智子外伝プロレスミッチー1〜9』ブラック馬鹿:
美少女レスラーが巨体のヒールと試合を繰り広げるだけ。やや全体は粗いタッチなのに主人公を可愛く描くのに一生懸命な感じが素晴らしい。続編に期待。
http://www101.sakura.ne.jp/~dressblackheulee/
※↑エロ注意


『フェミファシスト ヒルダの大冒険』
『阿佐ヶ谷 お伊勢の森 覚醒巫女』
『原画展 絶望廃墟要塞 図録』およびそのフライヤーポスカ
以上あびゅうきょ
あるもの全部買いたかったけど我慢した。図録の原画展は5月16日から24日まで渋谷のGoFaで開催されるらしい。図録冒頭掲載の「あびゅうきょ30年の歩み」からして熱い。巻末には30年間の作品リストも。そうか、やぎ座か。私と一緒だ。
http://abyukyo.blog56.fc2.com/blog-entry-4.html


『COMIC MAVO』竹熊健太郎責任編集:
文乃綺「城」(「……僕は イカに なりたいんだ」のやつ。パネルになってて気が付いた。欲しかったので嬉しい)目当てで。ポスカもオマケで付いてきて感窮まる。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/cat20696544/index.html

『Psycho Candy』藤城嘘、虚構老人ぬらぬら、琴葉とこ
鬱少女と「処女膜死守」って書いてあるハンカチ
ポスカ:
これから読む。

『Memento Melancholita』
ポスカ
以上[Innocentia/Inviolata]:
鬱少女ものは、町田ひらくおよびカイカイキキ会田誠系以降の表現を考えるときに避けるべからざる問題だと思う。もちろん町田ひらくカイカイキキ会田誠系をひとくちに称賛できないように、鬱少女ものも一概に肯定は出来ないけど。
http://mary.soragoto.net/


『熱紙1st』
『atusi2nd』
『ホットペーパー 通算3号』
『熱紙 COMITIA88号(通算4号)』
以上 熱紙出版:
ポストポッパーズ藤城嘘氏に評論系のオススメを訊いて教えてもらったサークル。最新号はエクス・ポみたいにオリジナル封筒入りで、藤城嘘氏のインタビュー「"ポストポップ"って?」が収録されている。これから読むけど楽しみ。あとやはりポストポッパーズの考え中さん(http://karuhazumi.blog15.fc2.com/)が売り子をしていたので名刺をいただく。ありがたい。
http://d.hatena.ne.jp/fuji_n/


別枠
『GAMOOK』同人ゲーム部:M3に行った某氏の依頼によりゲット。詳しくないから私が読んでもよくわからなさそうだけどまあ読んでみるかな…


近況:
最近はデリダ

エコノミメーシス (ポイエーシス叢書 (54))

エコノミメーシス (ポイエーシス叢書 (54))

とD.ハラウェイのインタビュー

サイボーグ・ダイアローグズ

サイボーグ・ダイアローグズ

を読んでます。
どちらも面白い。

こんな感じ(091020)

  • 作曲:木山光 演奏:野田健太郎「無実の投獄者2007」 YouTube

 http://jp.youtube.com/watch?v=-LIw8ykSmGU

  • Yakuza「Miami Device」

 アルバム『Way of the Dead』(2002)

  • 作曲:Jose Maceda 「Pagsamba - Angus」

 アルバム『Gongs And Bamboos』(2001)

  • Smash TV「Nobody(Barbara Morgenstern Remix)」

 アルバム『Bpitch Control Compilation』(2002)

  • 「I/5B Little Chorale(1)」
  • 「I/4A Object Trouve(2)」
  • 「I/4A Elbows」
  • 「I/2A Palm Stroke(2)」
  • 「I/1B Preludio Y Vals En Do Mayor」
  • 「I/11b Portrait(1)」
  • 「Ii/33 Jumping Fifths*」
  • 「Ii/26 Fifths(3/A, 3/B)*」
  • 「Iii/19 (...And Round And Round It Goes...)」
  • 「Ii/33 Jumping Fifths*」

以上、作曲:Kurtag Gyorgy、アルバム『Jatekok』

 「Charmes - Pour Penetrer Les Ames」
 アルバム『モンポウ ピアノ曲集 第1集』(NAXOS

  • Encre「Dogma, Africana & Math Folk One」

 『Encre A Kora』

  • Strapping Young Lad「Imperial」

 アルバム『Alien

  • 作曲:Lepo Sumera

 「Concerto Per Voice E Strumenti(1997)For Mixed Chorus And String Orchestra.
  Text;Doris Kareva II.Moderato」
 アルバム『Mashroom Cantata & Other Choral Works』

  • 作曲:木山光「Hikari Kiyama's Movie-3;Hallo Kitty Gus 2007, Death Metal, Awsome War」

 http://jp.youtube.com/watch?v=lJiOKmzIzpw

  • 作曲:Richard Ayres 演奏:NBE & Barbara Hannigan

 「In the Alpes」
 http://jp.youtube.com/watch?v=ENrqPKy-X9c

  • 作曲:Paul Lansky「Idle Chatter」

 アルバム『New Computer Music』

  • 作曲:Michel Walsvisz「The Hands (exerpt of Movement 2)」

 アルバム『New Computer Music』

  • 「Retrograde Version: High C」
  • 「Retrograde Version: Pizzicato Page 1」
  • 「Retrograde Version: Layers Page 1」
  • 「Retrograde Version: Dialogue」
  • 「Retrograde Version: Steps Page 1」

以上、作曲:Karheinz Stockhausen 『Mixture』

精神分析とアート

サイバースペース〜」でも書かれていたのだけれど、ベンヤミンの「複製技術時代における芸術作品」という論考において「視覚的無意識」という概念が、ラカン鏡像段階論やコンピュータの基礎理論となるチューリングの論考と同時に登場したことは興味深い。もちろんこれらは単なる偶然なんだろうけれども、これらの偶然を用意した必然や事実も認めるべきだろう*1。特にベンヤミンラカンとは大陸系の哲学的背景を共有している。あるいは、大陸系というよりもむしろパリに滞在することが多かったベンヤミンラカンが「パリの」哲学的背景を共有していたというべきだろうか*2

*1:こういった偶然の一致を強調し過ぎるあまり、「サイバースペース〜」自体がちょっと不必要に胡散臭げな運命論的な雰囲気を帯びてしまっていることは書き留めておいてもいいだろう。売文の書き方としてはちょっとカッコいい書き方ではあるけれども。

*2:ウィキペディアによれば、ベンヤミンの「パサージュ論」を預かったときの図書館の司書はバタイユだったらしい。バタイユラカンとは周知の通り親しい友人であった

サイバースペース〜をようやく読了

現在のメディア論的状況の前提を了解するのには非常に重要な論考だと思われるんだけど、どうしてこんなにもマイナー扱いなんだろうか。非常に不思議。もっとも、非常に速足での展開なので各所で原書にあたって諸々批判する必要はあるだろうと思われる。いわば「21世紀メディア論序説」といった感じか。
ベンヤミンチューリングラカンの同時代性を、ジジェクボードリヤール、そしてディックの小説やデリダの思想を引きつつ解き明かし更新しようとする。その更新作業については『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『ゼロ年代の想像力』『アーキテクチャの生態系』に引き継がれていると言えるだろうが、これらがいずれも日本のそれぞれ局所的な事象を論じているに過ぎない(しかしまたいずれも奇妙なことにその局所性を否定しようとするのだが)*1のに対して、マクロ的な状況およびその前提が論じられている「サイバースペース〜」は、何度でも参照すべき原論としてやはり再読必須なんじゃないだろうか。

ちなみに、私としてはこの論考が重要なのは二通りあって、ひとつは通常は音楽の問題とされている「ヴィジュアル系」(あるいはブラックメタルナードコアや、たぶんアイドルについて)のアーティストの在り様を考察するためにメディア論的状況論が欲しかったこと、もうひとつはポップアート以降あまりに理論的に拡散してしまっている「現代アート」の批評のためにはやはり認識論の更新が必要だと思っていることが挙げられる。もちろんこの両者は通底しているのだけれど。

ところで、東浩紀がどうしてこの論高のあと、迷走のような状況に陥ったのか(あるいはその後、現在のような「成功」ないしは「一人勝ち」を用意しえたのか)についてここのところよく考えてしまっている。似たようなエントリが続いている気もするが。
この「サイバースペース〜」論考じたい、後半は明瞭さを増しながらも簡潔さに堕しているように思われたのだが、これは「批評空間」あるいは『存在論的、郵便的』の読者以外にもアプローチしようとしたため(その動機についてもいくつか推測しえるのだけれど)*2ではないだろうか。

ともあれ、最近は東浩紀について書き過ぎた。反省しています。

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

*1:もっとも、具体的には論じられていないながらも、たしかにそれぞれの著作にはその対象とされた具体的事象を超えるマクロな射程が確かに認められることも否めない。ともあれ、そのマクロな射程を測るにあたっても、結局は視野を広く取っている「サイバースペース〜」が良い参照先になることも事実だろう。

*2:読者の不在というよりは、柄谷や浅田といった当時のビッグネームが輝きを失い、読者としての東にとって日本の批評の「空間」が刺激的でなくなってしまったのではないかとも思う。←これは、「日本の批評の空間」において東がビッグネームで在り続けている「ゼロ年代」の読者たちにとってはちょっと思いつかないのかも知れないとか余計なことを勘ぐって書いてみた。

トランスクリティークとポストモダン

http://d.hatena.ne.jp/innhatrang/20080426
↑を読んだ。
柄谷行人論といえばロスジェネ論壇の中心的人物としても知られる大澤信亮氏による論考がこないだの新潮11月号に掲載されていたけれど、そっちもちゃんと読めていない。今年は東浩紀の総決算・再出発の年でもあるようなんだけれど、柄谷理解についても決算の年なのかも知れない。というか、批評的言説のひとつの転機になっているのかも知れない*1
新潮と言えば、「ファントム、クォンタム」の第三回をようやく昨日読み終えた。第四回が今月号に掲載されているので、ようやく追いついたかたち。第三回では過激で派手な理論をぶちまけていた主人公とそれに「冷めつつノった」弟子とのやりとりが描写され、理論的な尖鋭化と虚無の感情とテロの問題について考えさせられる。私小説的なものとして書かれていると思われる本作について言えば、その「過去に書かれていた派手な論考」というのはおそらく私が今読みつつあり、またもうすぐ読み終われそうな「サイバースペースは〜」がそれにあたるのではないかと思っている。もちろん、テロを支援するほどには過激ではないのだけれども。
それで、この「サイバースペースは〜」というのは、I期柄谷や、最近の宇野常寛、あるいは『アーキテクチャの生態系』や『構造と力』のような、相対的に「知られていない」言説について発掘的に紹介し、その紹介の際にアクロバティックな手法ときわめて明快な図式化を行うという系譜に収まる論考だと思われる。『郵便的不安たち』収録の「棲み分ける批評」は「相対的に知られていない言説」が対象になっているとは考えにくいのでちょっと違うかな。
サイバースペースは〜」が面白いのは、そこで中心的に論じられているのが「日本」の問題としては、とりあえず直接的には言及されていないところだ。もっとも、ここで論じられた論理的な枠組みはいくつかの別の日本文化論に引き継がれるわけだけれど。

*1:それはゼロアカが文フリで成功したとかそういうレベルの問題ではない、と私は思うのだけれども。